5年間をふりかえる(2019年〜2023年)

前回の5年間を振り返るから5年が経っていたことに気づき、あわてて5年間を振り返ってみることにする。

2019年

ほとんど記憶に残っていないので、写真やら色々ひっぱり出して記憶を呼び起こす。プレCOVID最後の年。

学会に2つほど参加。まず、NAACL2019 in Minneapolis。昨年のインターン生との共著ポスターを発表。東北大に移ったSさんと元同僚のNTT Nさんとディナーを食べて5年間かかった論文の採択お祝い。財布を店に忘れて店員さんが持ってきてくれて思わずハグしてサンキュー。翌日ふたりと一緒に散歩しながら見たミシシッピ川がかなりの濁流でちょっとびっくりした。別の日に前年のインターン生たちと同僚とジャズレストランに行き、ジャズの生演奏を聴きながらカリフォルニアでは食べられないフォアグラを食べる。翌年亡くなる同僚と最後の学会参加になってしまった。

続いてACL2019@Florence。会社スポンサーブースとポスター発表@RepL4NLP。NAISTに移ったSさんやNTT NさんやNさんらに会ったりする。Florenceは自費で家族も参加して観光をしたりした。観光地ということもあり英語も通じるし飯はうまいしイタリア最高。

夏のインターンの一人であるイスラエル人と1日1キーワードずつ日本語とヘブライ語を教え合った。早口言葉も教えてもらったが忘れてしまった。今はMazel Tov, Ma nishma, Metzuyan, Toda rabaくらいしか覚えていない。

思い返すと次の年からコロナ禍となり、この年が毎日オフィスに通って、ホワイトボードディスカッションをして議論をするという、良い意味で古き良き企業研究の雰囲気の最後の年となってしまった。

年の終わりにオフィスが同じビルの違う階に引っ越しするのでクリスマス休暇を返上して新しいオフィスへのサーバ引越し、および会議室システム設置など。いろいろと大変だった。誰もいない新しいオフィスにいろんなものを設置していくのがリアルマインクラフト感があって楽しかった。

2020年

1月に当大学の教授になった友人のお誘いでNew College of Florida@Sarasota, FLにて3日間の大学院生向け集中講義を担当。準備は大変だったけれど、自分の頭を整理することができたし、小さいカレッジながらもアメリカの大学の教壇に立つという良い経験になった。もうどれほど役に立つかわからないが講義資料をGitHubに公開している。

たしか教室に30人のうち1人くらいしかアジア人がいなかった気がしてこうも人種分布が違うのかとびっくりした。そのうち一人からいきなり「昨日は講義に出られずすみません」と日本語で話しかけられてびっくりした。どうやら1年間京都に滞在していたらしい。

それにしても初フロリダだったが気候もよく、時間が本当にゆっくり流れていた。講義が終わった後に友人と大学キャンパスを歩くと本当におだやかな気分になった。なんかここに長い間いるともう出られないような心地よさ。ただ、ハリケーン(台風)もあるし、ゴキブリも出るし、Sarasotaはわからないけれどフロリダはワニがわんさかいるイメージなのでフロリダは旅行で行くだけでいいや。

2月にはAAAI 2021@NYCに同僚と参加。前年のインターン生の仕事を発表。すでに中国ではCOVIDが流行しており、中国からほとんどの参加者が欠席していた。今思えば、すでにアメリカでも流行していたと思う。NTTのHさんに会い、NYCで日本の3倍くらいの値段をする一蘭を一緒に食べた(ちなみにその前日もひとりで一蘭を食べたので2日連続だった)。ラーメン後にスタバでゆっくり話をする。

3月、とうとうロックダウンが始まる。ロックダウン前日に近所のWhole Foodsにてあわてて買い出し。翌日からまともに買い物もできなくなるだろうということで、殺伐とした雰囲気だった。

ロックダウンが始まるとさぁ大変。学校がすべてオンライン授業となり、親も教師も手探りで大変だった。本当に大変だった。もう思い出せないが(思い出したくないが)、3日目に本当にう発狂した記憶がある。子供二人が騒いでWFHでの仕事にならないので寝室に机を移動し、子供達を物理的にシャットアウトした。しかし断熱材もない築年数不明の家では夏にものすごい気温となり、かなり体力的に消耗した。どうも眠気に襲われるので二酸化炭素濃度を疑い、Raspberry PiとCO2センサを買ってCO2濃度を定期的に家族用Slackに通知するようにした。そんな折、山火事が発生し、窓を開けられない状態に。予想どおりCO2濃度がすごいことになっていた。このRaspberry Pi+CO2センサについてはブログを書こう書こうと思っていたのだけれど結局4年経っても書けていない。来年になったら書きたい。

そういえばグリーンカード面接がロックダウン翌日に予定されており、留守番電話に「おまえの面接は延期になった。追って連絡するから待て」と連絡が来る。結局連絡は来ず、就労ビザが切れる前に延長申請を行う。結果的に就労ビザが切れる前にグリーンカード承認の連絡がするっと来る。面接練習もしたのに面接なしで取得。”Welcome to the United States” と書かれた三つ折りパンフレットとカードを受け取ったときには、なんともいえない感情が込み上げた。

たしかこの年の中頃にGPT-3登場。Playgroundで使ってみて自然な文が生成されるので感動した。その一方でAPIを使うなんて研究じゃないと距離を置いてしまった。もう少し初期段階から色々試していればよかったな、と思いつつも、まぁそんなものかな、と思う。

2021年

少しずつコロナ禍の雰囲気が和らいで徐々にオフィスに戻って仕事をするようになる。

2月にデスバレー旅行に行く。片道10時間以上運転をした。デスバレーではムービングロックを見るためにジープをレンタカーし、砂利道を運転してムービングロックを見る。スターウォーズのロケ地にもなったこともあり、まるで地球ではない雰囲気が楽しかった。しかしまぁよくもこんなところを開拓しようと思ったものだ。

夏にはカリフォルニアのサンベニトというところでしか採取できないというベニトアイト採取を家族と行う。採掘場から持ってきた岩石を水でこして暗室に持っていき紫外線ライトで照らして見つけるという作業をひたすら繰り返す。子供達と泥まみれ汗まみれになりながら楽しんだ。ちなみに娘が犬に追いかけられてギャン泣きしていた。

いくつかそれなりの大きさのベニトアイトを見つけることができた。どうやら毎週のように通っている常連客がいるようだけれど、そうじゃない人たちは一生に一度だろう。オーナーが「今度は君たちが子供を連れてくるんだぞ」とうちの子供たちに言っていた。孫を連れてきたいなぁ。

そこには古い建物がたくさんあり、そこのオーナーが建物を紹介するときに第二次世界大戦の頃からある、と言ったあとにハッとしたようにこちらを見て「すまなかったな」と言ってきたので「お互い様やで」と肩を抱いてポンポンした。優しい世界。

あとミュアウッズ国定公園に行った時にRedwood TreeとGiant Sequoiaの苗木を買う。Giant Sequoiaはすぐに枯らしてしまったので別のを購入したが、それからすくすくと育っている。購入する際に「3−4年は育てられるよ」と言っていたので、それくらいで死んでしまうのかと思ったら成長が速すぎて鉢植えには収まりきらないという意味だった。2023年現在、なんとか鉢植えで育てているが、あと数年したら地面に植えないといけなくなりそう。

夏の東京オリンピックをテレビで観戦。現地で見たかったなぁ。

秋からはアイスホッケーをやっている息子が10U(10歳と9歳のリーグ。生まれ年なので1月生まれが有利)という遠征が本格的になるレベルになり、いろいろと忙しくなる。元々通っていたRedwood Cityのアイスリンクがコロナの影響で閉鎖となり、チームがSan Mateoのアイスリンクに移動、結果的に自宅から渋滞なしでも片道30分近くかかる(渋滞ありだと片道45分以上)アイスリンクに週3日以上のペースで連れて行くことになる。かなり大変だったのだけれど、今思えばまだ甘い方だということを後年知ることになる。

秋は一年前に集中講義をしたNew College of FloridaでAdjunct Instructor (非常勤講師)と言う肩書きをもらって秋学期に大学院生向けのDeep Learningの講義を担当(Zoomでのオンライン授業)。本当に大変だった。死ぬほど大変だった。全世界の(常勤・非常勤問わず)大学教員は本当にすごいと再認識した。13週間 x 週90分2コマ = 39時間の講義で、各トピックについて演習と宿題を用意しなければならず、ゼロから用意しなければいけなかったので大変だった。ちゃんと測っていないが全部で講義準備と採点業務に200時間以上はかかったのではないかと思う。会社に副業申請を出して本業の仕事とは完全に別にやったので、本当に大変だった。

その頃は仕事を終えて夕飯を食べ3時間程度の仮眠を取る→起きて5時くらいまで作業して3時間くらい寝る→仕事、ということを行った。かなり寿命を削った気がする。

つくった講義資料は手直しをしながら5年間は使えると思っていたのけれど、一年後のChatGPTの登場からLLMブームになってしまい、おいおいマジかよ、という気分である(それでもTransformerや基礎知識に関してはまだまだ役立つ知識がカバーできているとは思う)こちらもGitHubで講義資料と演習資料を公開している。

ただ本当に良い経験だった。基本的に技術的な内容を誰かに教えるという行為は楽しいし、社会人経験者が多い大学院生なので、学生もよく良い質問してくれたので良い刺激になった。面白かったのは中間試験(ペーパーテスト)に「テストの出来はよくないかもしれないけれど、講義はとてもためになっているありがとう。単位が取れないと困るのでよろしく。」というメモ書きが書かれている答案用紙があり、こういうのは全世界共通なのだな、とクスリとした。

講義は最終的にひとりずつプロジェクトを発表してもらいその発表とテクニカルレポートの内容で評価。大変だったのが、ひとりずつに対して評価だけでなくその根拠を書かなければいけないということ。「あなたは中間試験がX点、課題がX点、最終プロジェクトがX点なので、Aです」みたいな感じで文章を書く必要がある。プロジェクトに関しては主観評価になってしまうのでなんでX点なのかという理由を書かないといけない。

どうやらアメリカの大学では学生に評価の根拠を問い合わせられると全て開示しないといけないらしく、評価の記述は気をつけてくれと友人の教授に注意される。結局、友人の教授にサポートしてもらいながらなんとか書き上げる。結局クリスマス休暇の旅行中にハワイのコテージで家族が寝静まった後泣きながら夜通し7時間くらいかけて書き上げた記憶がある。

講義そのものは楽しんだけれど講義準備は大変だし、課題準備と採点も大変だし、成績評価がゲロえぐいのでちょっと非常勤講師はもう無理かな。

そういえば5年住んだ家から500mくらいのところに引っ越しをした。子供たちも大きくなってきてそろそろ別々の部屋があった方がいいだろうと3BRの部屋を探していたところ、夜中の2時頃に上述の講義準備をしていたときにふと見たZillowに近所の一軒家の物件が(珍しく)出ていたことを知る。

あわてて下見の連絡をしたところ翌日返信が。「おまえで興味を持ったのは11人目だ」とのこと。まじか。歩いて行ける距離なので、さっそくその次の日に下見をする。築70年の古い家だが内装は割と新しくなっていたのと暖炉(*1)があったのでここに決める。アプリケーションでは日本人なので家を綺麗に使うよ、家賃支払いも滞ったことないよ、と猛アピールしたところ無事に成功。

そんなわけで無事に引っ越しが決まり、12月に引っ越しをする。500mの距離だけれど荷物が多いので、自分だけでは無理。引っ越し業者をいろいろ調べたところ評判の高い中国系の引っ越し業者とロシア系の引っ越し業者のうち、後者の業者しか都合がつかない

当日、大きなトラックとともに現れる三人のロシア人。リーダー格はとにかく残りの2人は学生バイトかな?という感じのロシア人だった。リーダー格以外は英語をまともに話せないので基本的にリーダー格と話をしながら進める。家に入るなりリーダー格「この荷物量だと3人じゃ無理だ。」薄々勘づいていたが荷物が多いらしい。そして一部の梱包もお願いしていたので、どうやら相当時間がかかりそう。追加人員を依頼したものの派遣は無理だそうで、その3人で作業を進めてもらうことに。

しかしそこはさすがのロシア人、黙々と作業を続ける。アメリカ感覚で勝手に休憩とか取ってくれるのかと思っていたら、水分補給もまともにしていなかったようでフラフラになっている作業員を見つけてあわてて飲み物と食べ物を渡す。2人は水以外は受け取らなかった。リーダー格はコーラが欲しいと言ってコーラを飲んでいた。なるほどアメリカに慣れると図々しくなってくのはどの国でも同じなのか。リーダー格はモスクワ出身らしく、渋滞がロサンゼルスの5倍は酷いと言っていた。うちにあったナルトの漫画を見つけて「この漫画知ってる。」とも言っていた。

結局12時間くらいかかって夜の9時過ぎに新居に荷物が降ろし終わる。スパシーボと言ってチップを渡す。作業量から考えれば大した金額ではないのだけれど、相当喜んでくれた。ただし、いくつか物が壊れたり、作業時間が長くなってしまったのでけして他の業者に比べて安くなかったのは良い勉強代になった。まぁでも楽しかったし、良い経験になったからいいや。

2021年のクリスマス休暇はカウアイ島のコテージに滞在しながらほぼ毎日ハワイアンモンクシールを見て癒される。子供がいる場合には遠く離れないといけないが、3メールくらいの近距離までは近づけるので、近くから昼寝しているハワイアンモンクシールを観察。

そんなわけで2021年が終了。

2022年

一番の大きなイベントはアメリカで初めての転職だろう。2017年から5年在籍したMegagon Labsを離れ、Grammarlyに転職した。Grammarly転職の際には友人に紹介してもらったメンバーと話をしたのだが、ロシアのウクライナへの侵攻が噂されていた侵攻1週間前のKyivオフィスだったので、その後の侵攻のニュースを聞いたときは本当にショックだった。

ちなみに転職に際しては3社受けて、第一希望のGrammarlyからすぐにオファーがもらえたので、他2社の選考を辞退。ちなみにその2社は某著名LLM系スタートアップで、その後数百M$をレイズすることになるのはまた別の話。

新しい仕事までに2週間の休みを取って子供達にとって初めてのスキー旅行。Lake Tahoeに行ったものの強風でゴンドラが動かなかったり、と、結局毎日別の3つのスキー場に通った。アイスホッケーをやっているおかげで子供達も割とすぐにスキーに慣れて楽しそうだった。これなら子供達とスキー旅行に今後も行けるだろうと妻とふたりでブーツフィッティングをしてスキーブーツとスキーを買う。ブーツフィッティング職人に「こんな靴下ではスキーブーツに対する冒涜だ」とスキー用ソックスを渡されたのが印象的だった。

転職後にACL 2022@Dublinに参加。入社2週間しか経っていない状態でスポンサーブースに立って会社の説明をする。普段ヨーロッパにいるメンバーとも直接会うことができて、ウクライナ式乾杯を教わったりもした。日本から知っている人は東工大のOさんくらいしかおらず、新しく何名かと会って話をする。結局これが2023年12月現在最後の学会参加。

さてACLから帰宅してその足でIrvineへ息子のアイスホッケー遠征で長距離ドライブ。片道6時間ほどかけて運転。当時はDublin出張から帰ってきて翌日6時間運転なんてクレイジーだと思っていたのだけれど、もう当たり前の感覚になってしまった。だいぶカリフォルニア人になってきた。

Grammarlyは基本的にリモートワークで四半期に1週間オフィス(サンフランシスコ)に集まるのだけれど、そのときの懇親会で最近入社したミシガン出身の黒人メンバーと隣になって色々話す。別のメンバーがミシガンからサンフランシスコまでどうやって移動したのか、車で移動したのか、というようなことを聞いた時に「黒人がそんな長距離を車移動できるわけがない」と言っていたのが印象的だった。メディアでも報道されるように遅い時間に車移動しようもんなら警官に何をされるかわからないとのこと。黒人アメリカ人の友人がいなかったのでこの話を聞いた時にはかなりショックを受けた。ちなみにそのメンバーは滋賀県に1年間交換留学していたことがあり「日本のゴキブリは飛ぶからマジやばい」という謎のトークで盛り上がった。

この夏ハエトリソウを育て始めるが、冬の寒さで枯れてしまう。同僚にJackという名前をつけてもらったばかりだったのに。まだその同僚にはJackが死んでしまったことは伝えられていない(そして会社を辞めてしまったので伝えるチャンスがあるかどうか)。

夏は庭にガチ目のビニールプールを設置する。Home Depotで砂を150kgくらい購入して可能な限り平らにして、その上にビニールプールを設置。丸2日かけての作業だったが、この頃からHome Depotに行くとワクワクするようになる。だいぶアメリカ人になってきた。どうやらアメリカではプールの水を基本的に変えないらしい。冬の間はカバーをかけているが、この時に入れた水がまだ残っている。

子供たちが幼稚園年長から毎週土曜日に通っていた日本語補習校を辞めた。アイスホッケーの練習や試合が重なることが多くなり、徐々に通うのが難しくなってきたのと親の時間&宿題フォロー負担が限界に来ていた。家では日本語を使うし、日本語の通信教育も続けてはいるものの、言葉が違いすぎる日本語と英語のバイリンガルというのはかなり難しいということを体感した。子供は2人とも英語の方が強く、日本語は頑張って維持するのがやっとという感じである。世の中にいるバイリンガルの人たちはどうやって育ったのかぜひ知りたい。

2022年のクリスマス休暇はRenoに滞在してMt Roseでスキー旅行。2日目に早くも筋肉痛になり、どんなに良い道具を使っても身体がついていかないと意味がないことを実感する。

2023年

2月にBerlin出張。ヨーロッパでの乗り換えでは使ったことあるけれど、初ドイツ。至高のB級グルメCurrywurstと出会う。滞在中1日平均2回ほど食べた。東西Berlinを電車に乗って歩いてみたが、本当に旧東ドイツと旧西ドイツで雰囲気が全然違う。旧ソ連で生まれ育ったロシア人が、東ドイツ付近の風景が昔のソ連の雰囲気が残っていると言っていたが、あれ日本の団地まんまなんだけど、と思ったのはここだけの話。ウンテル・デン・リンデン通りを観光し、歩きながら「我が学問は荒ぬ」と厨二っぽくつぶやいてみたのがBerlin出張のハイライト。治安も良いし英語も通じるし、住んだら違うのかもしれないが訪問するにはよかった。本当はレンタカーしてアウトバーンを運転してみたかったが、またの機会に。

子供たちの学外活動がさらに大変になってきた一年であった。どこに行くにせよ、車に乗せて連れて行かなければ何もできないので親が大変。息子に加え、娘も8Uというレベルになり、試合のために遠くに遠征が入るようになった。

息子のアイスホッケーはプレーオフの試合で残り4秒で同点に追いつかれ、10分間のオーバータイムが3ピリオドでも両チーム一点も入らず、4ピリオド目で決勝ゴールを決められシーズン終了。負けてしまったものの感動的な試合であった。

春シーズンからはクラブを変えてより高いレベルのリーグでプレーをしたいというので、前チームのチームメイトと一緒にトライアウトを受けて合格。トライアウトをチームメイトの父(韓国人)と一緒にWBCを観戦しながら見守る。トライアウトそっちのけで大谷がトラウトを三振に取るシーンをライブ観戦。他の親たちが自分の子供たちのプレーを固唾を飲んで見守っている中、二人のアジア人がスマホに齧り付いてワイワイ言っているのはシュールだったと思う。なお、その韓国人父は大谷がトラウトを三振に取った瞬間「まるで漫画だ!H2の国見比呂だ!」と発言しており、相当な漫画オタクである。そこでH2を持ってくるあたりが只者ではない。ちなみにこの韓国人父、ある日いきなり「今日さぁ、通勤途中にきまぐれオレンジロードのOP曲が流れてきてまじエモい気持ちになったよね」と話しかけてきており、きまぐれオレンジロードを漫画では読んだことあるもののアニメまでは見ていないのでなんとも反応に困ったのはここだけの話。

なお2009年WBCで決勝打を打たれたので韓国人はイチローが嫌いらしいが、大谷に対してはポジティブな感情を持っているみたい。

春シーズンはうまくなりたいという息子の希望で所属チームの練習および追加練習セッション、そして別クラブが主催する春シーズンの練習キャンプの3つに参加し、ほぼ毎日San JoseとCupertinoへ練習に連れて行くことに。日によっては最大3つの練習セッションに参加し、学校から直接アイスリンクに移動し、そのまま7pm頃まで練習みたいなことをやっていた。だいぶ頭がおかしいと思っていたのだけれど、同じことをやっているプレイヤーが少なくとも数人以上はいることを確認し、アメリカにいる人たちのスポーツにかけるエネルギーはおかしいと思った。それでもベイエリアはアイスホッケーのレベルは低く、そんなに頑張ってもプロはおろかNCAA D1に行けるプレイヤーが出るか出ないかという話らしいので、アイスホッケーが盛んなミネソタとかカナダとかどんな雰囲気なんだろうと思った。ちなみに、ベイエリアでトップレベルのプレイヤーの一部は、アイスホッケーを含めてユーススポーツのレベルが高い南カリフォルニアに引っ越すとのこと。おいおいマジかよ、と思ったけれど日本でも野球等で越境入学があるからそれほど不思議ではないのかな。

Memorial DayはLas Vegasでアイスホッケートーナメント。初Las Vegas。最終日は飛行機まで時間があったので全米最大のHoover Damを見て巨大建造物に感動を覚える。

40歳になった。もっといろいろ感じることがあるのかと思ったけれど、特に変わらず。ただし、体力の低下がとにかく酷い。頭の回転の低下も僅かだが感じるようになってきた。一番の低下は記憶力。まず名前が覚えられない。5年前も同じことを言っていたが、5年後はかろうじて仕事ができるレベル、あと10年経って50歳になったら認知症になるんじゃないかいう感じ。

夏は日本に帰国。家族と会ったり国内旅行をしたら一瞬で終わった。黒部ダムに行き、ダムカードをゲットする。最初の仕事での同僚と国内キャンプに行ったとき「あ、ダムがあるんやん。ちょっと車停めて。」といい、つかつかとダム管理局に入り「こんにちは。ダムカードください」とダムカードをもらっていたことに衝撃を受けてから10年以上。「ねんがんの 黒部ダムカードをてにいれたぞ!」Hoover Damを見たあとだと大きさそのものは負けるものの、黒部ダムに向かうバスや階段だったりコンテンツとしては黒部ダムの方が良かったと思う。

10月に再び転職。当時は積極的に転職をする気がなかったものの、内外の状況の変化もあり、外の話も聞いてみることに。結果的に2社からオファーを貰い、3つの選択肢でかなり悩んだ結果、新しいチャレンジをすることに。結局前職を一年半で去ることになってしまった。在籍期間は短かったものの、プロダクトに自分がつくったモデルがデプロイされたり、バックグラウンドが多様なメンバーと働けて本当に素晴らしい経験になった。多くの素晴らしい同僚に恵まれた。100人に満たない小さなスタートアップが1000人を超える大企業に変化していくというフェーズだったので、貴重な経験だった。ちなみに多くを語れるほど米国テック業界を知っているわけではないが、JTCに6年以上勤めた身としては、結局どの会社も本質的にはそれほど変わらないと思った。シリコンバレーで生き残る大切なことは全てNTTで学んだ。

転職前に2週間休みを取って、一人で1週間日本帰国し、10年近く会っていなかった友人たちに会う。時差ボケで早く目が覚めたので始発の高崎線で高崎に向かい、ラーメン屋をやっている高校の同級生に会いに行く。おいしかった。人生初人間ドック。バリウムを飲んだ後にニュータンタン蒲田店にてタンタンメンとタンタン飯という神の食べ物を食す。毎晩同窓会イベントで懐かしい人たちと会う。当時は10年近くも会えなくなるなんて想像もしていなかった。すでに同級生、(元)同僚が複数名この世を去っているし、同期が「次会うまでにこの中の誰かが死んでいてもおかしくない」と言っていたとおり、もしかしたらこれで会うのが最後かもしれないと思うと、なんともいえない気持ちになると同時に本当に健康に気をつけようと心に誓った。

年末は休みを取ってSalt Lake Cityにスキー旅行の予定が、12月27-30日にアイスホッケートーナメントが入ってしまったので、Lake Tahoeへスキー旅行に切り替える。12月23日の昼過ぎまで娘のアイスホッケートーナメントでSan Joseアイスリンクに滞在し、家に寄って荷物を載せ替えて4時間半をかけてRenoに移動。翌日と翌々日、Lake Tahoeでスキー。4日目に再び4時間半をかけて帰宅。翌日の試合に向けて息子をアイスリンクに連れていき自主練習

2年半前に買った車の走行距離が3万マイルを超えていた。一年あたり2万キロを走っていることになる。この期間には出退勤に車を使っていないので、ほとんどが子供たちの送り迎えまたは遠征に使っていることになる。アメリカ人の感覚ではこんなの当たり前なのかもしれないが。。。燃費と合わせて走行時間も記録しており、1年あたり320時間とのこと。ちなみに妻は別の車で送り迎えをしているので、半分以下でこれである。

そんなわけで12月30日が終わろうとしている。

5年間をふりかえって

さて5年前の来年の豊富に何を書いたのか見直してみる。

  • 継続的な研究テーマの立ち上げと遂行
  • 朝型生活の継続。仕事前のジム。
  • 読書!まずは10冊から。
  • ライティングスキルのさらなる向上。

継続的というよりも行き当たりばったりな気もするが、それなりに継続的に研究テーマを立ち上げ論文を出せたと思う。ただ、Grammarlyに転職してからはプロダクト寄りの仕事になり、自分の興味も論文そのものよりも実応用に寄ってきたので、今後はどういう方向に進むかわかrない。

だいぶ朝型になった。というよりもならざるを得なかった。ヨーロッパメンバーと仕事をすることが多かったので時差の関係で朝7時から(早いときは6時台から)ミーティングがあったので朝型になった。あとは体力がなくなり、朝早く起きると夜更かしができず早く寝る→早く起きるというスパイラルができていた。体力はおそろしいほどなくなっている。

読者は相変わらずできていない。論文を読む量も減っている気がする。インプット量の低下が激しい気がするので、これは改善しないといけない。(5年ぶりN回目)。

英語ライティングに関してはだいぶ伸びたと思う。米国に来た当初はProofreadingサービスを使っていたが、もうここ数年は論文執筆にもGrammarly以外は使わない。これに関しては(1)毎日英語で技術文書を読み書きしているので慣れた、(2)英語論文に使う表現は一般の技術文書に対してもさらに限られているので単純にそれを使えるようになった。ただ、ちょっとした言い回しをより正確に言いたいときにはDeepLやChatGPTをつかって確認することがある。これはノンネイティブだからしょうがないと諦めている。

「とりあえずは5年後のキャリアを意識した振る舞いとスキルセットの獲得を考えねばと思っている」と書いていたが、これは実現できたのかわからない。けれどまぁ業界で生き残っている(?)ので、できていたことにしよう。

若手ではなくなり、キャリアも後半に差し掛かってしまっているので(自分の感覚ではあと5年か10年くらいしか働けないのでもうかなり最後半!)これからの5年間はどうだろう。不惑とはいえど、さらに迷っている気がする。これからの5年間で上の子供が高校生になってしまう。その頃まだ米国に住んでいるかわからないが、大学入学のこととかで頭を悩ませているだろうし、アイスホッケーを続けていれば遠征であちこち飛び回っているに違いない。再び大企業に戻ってきたので、技術者だから技術的なことだけしていればよいわけではなくなりそうだ。仕事上の悩みも多いし、技術の進歩は早いしうんたらかんたら。

そろそろ文章を書くのに疲れてきたので振り返るのを終わりにする。

(2024-01-02追記)ひとつ大切なことを書き忘れたので追記する。体力の低下と伴い、睡眠時間の確保だけは死守するようにしている。特に2021年の非常勤講師で死にそうになったときも必ず寝るようにしていた。今は昔の感覚 +1時間は必ず寝るようにしている。紅の豚のポルコロッソは「徹夜はするな、睡眠不足はいい仕事の敵だ。それに美容にも良くねえ」って言ってたし、水木しげるが漫画で「知り合いの漫画家が何時間しか寝てないとか何日徹夜したとか自慢し合ってたんだけど、みんな早死にした」みたいなことを言ってたし、睡眠は大切。この5年昼寝もなしの徹夜はしていないし、もうできないと思う。夜更かしが必要なら仮眠→夜更かし→短時間でも寝る(可能であれば起床時間を遅らせる)。

そういう意味で寝ていないアピールで格好つけようというモチベーションがなくなったのは歳をとってよかったことのひとつかもしれない。疲れたら寝よう。締め切りがあっても寝よう。睡眠時間を削らないと終わらない仕事はすでに締め切りに間に合っていない。村上春樹が仕事のルーティンを守るために人と会う時間を極端に制限している(せざるを得ない)というような話を思い出したが、まさにそれ状態。自分の場合は、睡眠、家族、仕事、そして時間が余ったら途中になっているゲームをする、これでいっぱいいっぱいなので人と会うなどそれ以外のイベントはほとんどできない状況である。今後5年はもう少しそれ以外の時間も取れるのだろうか。

2024年の抱負

今までは色々書いてきたが、シンプルに

  • 健康第一
  • 家族とともに生き残る

これ以上のことは望まないことにした。再来年はもう少し欲張りなことを言うかもしれない。以上、今年も良い年であった。来年も良い年でありますように。