5年間をふりかえる(2014年〜2018年)

どうやら最後にふりかえり記事を書いたのが2013年だったので、どうやら丸5年間ふりかえっていないことに気づいた。ちょうどはてなダイアリーはてなブログに移行したことだし、5年間のふりかえりをしてみることにした。思いがけず長文になってしまったので、誰が読むんだろうと思いつつも、自分用の記録として残しておく。

2014年

人生の転機と言える年だろう。6年間務めた前職を辞めて転職、そして年末に渡米。2歳の子供がいて、妻も妊娠していたこともあり、1年早くても1年遅くてもこの決断はしなかったように思える。前職の思い出をふりかえると、とにかくかけがえのないものを学んだ6年だった。大企業ならではの堅苦しい制度については批判の方が多いが、その経験こそアメリカ生活で大きく役に立っていると断言できる。2018年後半には同じ会社を退職した人々が某社に対して批判的なブログ記事を書いて世間を賑わせていたが、自分に関して言えば人生をやり直してもやはり新卒で同社に入りたいと思う。「シリコンバレーで生き残る方法はすべて某TTで学んだ」という釣りタイトルでブログ記事でも書こうと思っているくらいである。自分はまだきちんと生き残ってるすらいないので、きっと5年後くらいに書くのかな。

さて、この年のはじめからカナダ人のインターン生を受け入れており、後輩指導を含めてとても良い訓練になった。一本研究会論文を発表したものの、自分にもう少し能力とスキルがあれば、もっとよい成果を目指せたと思っている。インターン生を最後まで面倒を見れなかったので大変申し訳無く思っている。引き継いでいただいたNさん、Tさんには感謝の言葉もない。初音ミクの大ファンということもあり、退職後にコンサートチケットをプレゼントして一緒に初音ミクコンサートに行った。初音ミクコンサートは初めてで、一緒に参加したYくんに借りた光る棒(なぜ複数本持ってきてたんだ?予備を持ってくるのは当たり前なのか)を見よう見まねで一心不乱に振ったのは今でも最高の思い出。

転職後の3ヶ月間だけ東京と銀座のオフィスで勤務。田舎のネズミが都会のネズミになった。いろいろな部署の方々と会い、会社によってこれほど文化が違うのかと大きくカルチャーショックを受けたことを記憶している。

その後、12月15日に単身極寒のボストン空港におりたち、ホテル住まいをしながら物件探しと生活の立ち上げを始めた。アメリカで初めて訪れた店であるCentral st.近くのWalgreensの店員が発した言葉(Do you have Walgreens' card? という意味でcard?と聞かれた。自分にはcar?と聞こえた。)が理解できず、何度聞き返しても言い直してくれないぶっきらぼうさと、己の英語力のなさに早くも絶望して、32歳にして公の場で泣きそうになった(心の中では泣いていた)。スノーストームのため2日ほど電車も止まり、ホテルの部屋で孤独感と戦いながらファミリーサイズの小包装スニッカーズを齧っていたのは今でも良い思い出。なぜホテル併設のレストランに行かなかったのか。タクシーやUber(当時からそれなりにボストンでは利用可能であった)を使ってどこかに行かなかったのか謎。Walgreensの店員が相当怖かったのか。追い詰められた際にひとりになるな、の典型的なパターンである。後日談だが、依頼した写真印刷がプリンタが壊れているという理由で期日に準備できておらず、連絡もなかったため無駄足を踏んだなど、ボストンのWalgreensにはまったく良い思い出がない。そんな期待値でベイエリアに引っ越してから立ち寄ったWalgreensで店員に「May I help you?」と声かけされたときには驚いて思わずThank youと言ってしまった。ビバ西海岸である。しかし、ベリエリアとボストンどちらが好きかとよく聞かれるのだけれど、何も理由を説明できないけれど、ボストンのあの雰囲気が無性に恋しくなる。

ホテル滞在中に上述のインターン生がインターンを終えるというので "May the Miku be with you" という言葉で締めくくるビデオレターを送る。10回くらいリテイクした。陽気な感じの内容になっているが、その裏で自分は上述のような状態であった。30歳を超えるとどのようなキャリアを積んでいても、何かしら1ラウンドは経験しているもので、変化に対するショックや己の無力感はけっこうなダメージだと思う。自分は割と変化やショックに強い方だと思っていたが、そんなことはまったくなかった。メンタルはボロボロ、不安でいっぱいだった。

大学では二人部屋が与えられ、オフィスメイトのXに出会う。同じアジア人で、近い年齢ということもあり、価値観が近く、Xのおかげでカルチャーショックを受け続けてぼろぼろになりつつもなんとか持ちこたえられた。彼がいなかったら間違いなくメンタルをやられ、アメリカ怖いもう行きたいない状態になって日本に帰っていたと思う。クリスマスにXの家で手作り料理を振舞ってもらい、ふたりでiPadを見ながらるろうに剣心について話したのは今でも良い思い出。

海外留学や赴任をこれからする人に言っているのは、受け入れ先の教授やボス以外に、(理想的には)ツーマンセルで動けるようなメンターまたは同僚がいることは超重要と言っている。もちろん、ほとんどの人がそんな人がいなくてもやっていけるのだろうけれど、いることによるマイナスはほぼないので、リスクを減らすという意味でもいることを担保しておいた方がよいだろう。

2015年

そんなわけでボロボロのスタートで大きな不安と大きな期待感で始まった2015年。総括するとなかなか思うような成果を出せずにもがき続けた一年だった。今この年をやり直せれば5倍から10倍は有効に使えたと思うくらい色々と無駄にしてしまったと思う。しかし、この年経験した「数々の失敗」はその後につながりかげがえのないものになっている。そして、なんだかんだいってこの年に生まれたいくつかのアイディアが苦労の末、2018年にはTISTCSCWで論文化したので、大切なのは成果という形まで持っていく根性と気合ということも学べた。その意味でも特にXとS教授からは多くのことを学んだ(のだけれど、それを明確に認識するのは2年くらい経ってから)。

1月末に娘が日本で生まれ、出産に立ち会うことができず日付が違ったので「娘が明日生まれた」という状況が起こった。出生届の提出とビザ取得のために一瞬だけ帰国、また戻って4月に家族と一緒に引っ越し。人生でこれほどバタバタすることはないだろうと当時は思ったのだけれど、2016年にもっとバタバタする生活が待っていた。

家族が合流してからは家族と共に慣れないアメリカ生活に苦しんだ。しかし、小さい子供を連れているとみんな優しくしてくれるので、その点はイージーモードだった。後述するが、小さい子供がいると親同士の交流が発生しやすいのでソーシャル力が低くても知り合いをつくる機会が持ちやすい。その意味でもある意味小さい子供と一緒にアメリカに引っ越すのは良いタイミングなのかもしれない。アメリカで出産できれば国籍がげっとできるのでなおよいが。この記事では書かないが、アメリカのビザ取得は冗談じゃないほど大変で排他的なシステムなので、出産をしてアメリカ国籍を取得できるのであればそれに越したことはないと思う。

この冬は記録的な降雪と低気温のおかげでチャールズ川がカチカチに凍り、凍ったチャールズ川の上に乗ったり、はじめての雪国を満喫。マイナス20度になると「寒い」じゃなくて、「痛い」になることを体感した。しかし外が寒い地域は室内が最高に暖かいので、自分が好きな季節は「ボストンの冬の室内」といつも答えている。

大学の大先輩(ボストンに行くまでお会いしたこともなかった)に誘われ、マラソンを始める。2年間で5km、10km、ハーフマラソンのメドレーを二回走り、2年目はハーフマラソンを走った。しかし、人生で長距離走の経験が乏しく、さらに大学までで人生でやるべき運動量をすべて完了したと信じている自分は結局本場のレースの距離以上に走る練習をしなかった。三回目のハーフマラソンに至っては2ヶ月間一度も練習をせずに2日前に10km弱を走っただけである。なんとか完走はできたが折り返し地点で完全にガス欠になり、最後はバンビのようにガクガクになった足を引きずってゴールした。西海岸に移ってから一回も走っていないのだが、レースと一緒に走る人がいるというのはやはり大きいなぁと思う。

会社の仕事はそれなりのことをしたつもりではあるが、どうしても自分が思い描いたような方向にもっていけず、その点ではやはりもがいていた気がする。新しく立ち上げる組織の外部アドバイザを依頼するために各大学の著名教授を訪問するツアーではちゃっかりサインをもらったり、写真を撮ったりミーハーなことをしてしまった。

大学の講義でChomskyがゲストスピーカーで来る予定のコマでPeter NorvigのChomskyに対する反論記事のまとめを講義で発表。酷い英語だったけれど、かなり良い経験になった。当日になってChomskyのダブルブッキングが発覚し、結局Chomskyなしで講義を行うことに。大変ショックだったものの、講義は盛り上がったので良い思い出。もし本人が来ていたら緊張で気絶していたと思うくらい緊張した。

しかしまぁ振り返ってみるとやはり、やる気と現実が噛み合わず、もどかしい気持ちだけが大きくなる一年だった。企業から大学への派遣や留学だと1年という単位が多いと思うが、事前にテーマと計画がだいたい決まっていなければ、2年はないと成果は残せないと思う。また、研究室に馴染むという意味でも1年では難しい気がする。

2016年

2015年にもがき続けるも対外的には大した成果が出せずにかなりのプレッシャーを感じていた。いろいろとやり方を試してみるもなかなか噛み合わず、どんどんプレッシャーは強くなっていった。2015年につづき夕飯を家で食べて再びオフィスに戻り夜中まで作業というような日々が続いた。計画性のない実験や実装を繰り返していた。キャパシティ以上に複数プロジェクトを進め(ようとし)ていた。今思えば、効率の悪い働き方をしていた。

研究者によらず、子供がいるような家庭を持っているステータスにおいては効率のよい方法で成果を出せるスキームを獲得していない辛いということを体感した。自分の場合はその点周回遅れという自覚があったので、家庭を犠牲にして仕事に時間を割かせてもらった。オフィスメイトのXがこれまた勤勉で、本当にふたりでよく遅くまで働いていた。繰り返しになるが、自分の年齢になると「時間をかければなんとかできる」という仕事は多くなってくる。それらに対して「短時間で終わらせる」ようにできるかどうかが成果をスケールさせることができるかの違いになってくる。自分の場合は完全に悪い例で、時間をかけて終わらせる戦術を選択してきた。これはスケールしないし、体力の低下と時間の減少と共に破綻するので、いち早いモデルチェンジが求められる。

大学では研究室メンバーや学部生を巻き込んでの研究プロジェクトを複数走らせていたが、参加メンバーも他の研究プロジェクトがあるので、かならずしもうまく進められるとは限らない。特に自分がリーダーでない場合には自分自身の努力ではどうしようもない。そんなことを2015年に何回か経験したので、自分が研究プロジェクトを計画して自分がリーダーをやるのがもっとも手堅いということに気づいたのもこの年だったと思う。そして、企業経験が活きた。どんなに優秀でも天才でも、みんな社会人経験が少ないので(中には数年企業の経験をしている学生がいたが、日本企業ほど堅いルールの中で働いた人はいなかった)、自分ほど綿密に計画を立てる経験値を持った人間はいなかった。そんなわけで自分がリードするプロジェクトはもちろん、それ以外ではファシリテータ的な役割を進んで行うようにした。プレゼン資料の作り込みについても感心された。それまでプレゼン能力をはじめ負けている部分をどうにかしようという想いが強かったが、なんだ自分が勝てる部分を前面に押し出して説得するのが一番、ということに今更気づいた。

この夏、二人の優秀な学部生との出会いがあり、これまたメンターとして大きく成長した(と思う)。夏季は学生も授業がないのでプロジェクトに時間を割けることもあり、新しい試みとして「必要知識のレクチャを講義形式で行う」をやってみた。これがふたりともよくはまったと思う。ひとりとの研究成果はストーリー作り、実験計画から論文執筆まで自分が担当。実装と実験については当該学生に任せるという完全分担スキームで進めてみたところ運良くWWWに一発採録され、大きな自信につながった。なにより、指導者(被指導者も自分と考えれば、自分ひとりで行う研究でも同じことがいえる)が良いテーマと計画を用意することの重要性と、いままでそれを自分ができていなかったことを自覚する良い経験となった。

秋には持ち回り形式の講義を担当し、ふたたび一コマ喋ることに。これまた非常に良い経験になった。自分が英語で講義なんて想像していなかったが、これをきっかけでやればできるんじゃね?とようやく思うことができた。あとは質と回数である。

フェンウェイパークに通いまくった一年だった。昨年には生で見れなかった上原をみることができた。Big PapiことDavid Ortizの引退試合と引退スピーチを生で見ることができた。2年しかいなかったけれど、自分にとって一生ボストンが特別な街であり続けるだろうとおもっている。心残りはPatriotsの試合を見れなかったこと。チケット高すぎ。ホッケーとバスケットボールはまだデビューしていない。

この年の冬に大学の赴任を終え、西海岸に新しくできた組織に物理的に移ることになった。珍しいケースの転勤ということや珍しいケースのビザ切り替えということもあり、いろいろとバタバタし、結局東海岸から西海岸に荷物を送っている間に日本でビザ面接を受けることに。もろもろのタイミングから、結局2016年の暮れ1ヶ月間家族とホテル暮らしをすることに。これは本当に辛かった。1歳と4歳の子供たちと一部屋のホテルで1ヶ月。一番辛かったのはもちろん子供の面倒を見ていた妻なのだけれど、子供がいる家族持ちが家を失うとどういうことになるかということを体験し、心底ぞっとした。Mr.Incredible 2で家を追われたインクレディブルー家がモーテルでテーブルを囲んでパンダエクスプレスを食べているシーンがあるが、まさにそんな感じであった。まぁ職はあるという意味では絶望感は比較にならないが。家族持ちになると思考回路が変わるけれど(でないと困る)、家や職を失うことに対するこの筆舌しがたい恐怖心は独身時代や子供がいない頃には想像できなかった。若い人にキャリア相談を受ける時は結婚と子供のタイミングについてかならず言うようにしているのだけれど、だいたいみんな若いので「?(なにいってんだコイツ)」みたいな反応をしている。まぁ仕方ない。

そんなわけでホテル暮らしで年越し。年越しそばは緑のたぬき

2017年

年明けにビザ取得し、ようやく家も契約し、引っ越し完了。新しい組織のメンバーとして1年間働く。まだ小さな組織なのでほんとうにいろんなことを経験することができた。

複数プロジェクトに参加し、ひとつのプロジェクトをリードする際にマネジメントのようなものを学んだ。夏のインターン生受け入れてもしたが、こちらは反省点ばかりが残る。夏期のあいだは完全に自分がキャパシティオーバーになってしまい、インターンまかせになってしまった。2016年のプロジェクトはかなり運がよかっただけということに気づき、これは翌年の反省につながる。

チームメンバーとのコミュニケーション、採用面接も行うようになったので、ようやく英語でのコミュニケーションに慣れてきた気がする。と思ったけれど、要所要所で完全に理解できないところが出てきたり、自分の発音が悪いので伝わらなかったりして(直されたりした)、「まるで何も成長していない」と自分の中の安西先生がつぶやいてショックを受けたりした。なにより雑談はまだ全然ダメ。昼はだいたいみんなでランチを食べるので、昼休みのたびに雑談訓練。特にアメリカ人の流暢な英語による雑談が苦手ということに気づく。

やはり環境が変わった一年目はなかなか噛み合わないもので、2015年と似たようなもどかしさを感じていたのだと思う。それでも、会社という意味で大学に比べてチーム仕事が多く、その点のストレスが減ったように思う(その点、ストレスが増えることもあるが)。

3年目にしてアメリカにおいて「親」らしい生活がようやく始まった気がする。いままで子供を通わせていたプレスクールはいわゆる預かるための保育園で、新しいプレスクールは教育重視の学校で、ドロップオフ、ピックアップの時間も10分以内に行わないとペナルティが発生する。自然と他の親とも話す機会ができた。Parent-teacher conference では事前質問を持って行って、拙い英語で子供達の現状と課題について議論した。

自分たちが移民した非アメリカ人(特にアジア人)が多く、そういう意味で価値観が近い親が多いので、いろいろと話すようになった。人生初のプレイデートを経験した。息子と仲の良い友達のおばあちゃんが「この子たちは仲良いからプレイデートをするべきだ。今度の土曜日に来なさい」とむりやり誘ってくれて(実際土曜日は先方が都合がわるく日曜日になった。おばあちゃん、、、)

こちらでは親が積極的にソーシャルしないとやっていけない。アメリカの子どもたちも小さい頃からそれを訓練される。その点、アジア系(特に中国、台湾、韓国、インド出身の人が多い)は日本人と同じような教育を経験してからこちらに来ているので、アメリカの教育に対して同じような不安と不満を持っている。というように上の子供が次の年からKindergartenに入ることを考えていろいろと調べ始めた。

クリスマスには家族みんなでStar Wars: The Last Jedi を見る。はじめての家族みんなで映画館。これがキッカケで息子はStar Warsにハマる(作戦通り)。

2018年

ようやく2018年のはなし。2017年にある意味で落ちていた分、持ち直した感じのする年だった。ようやくアメリカに(西海岸に)落ち着いた、と言えるようになった気がする。仕事では相変わらず働く時間は昔に比べて短くなったものの、その中でも少しずつ成果につなげられるようになっていると思う。共同研究者とのコラボも少しずつうまくなっていっている気がする。

アメリカ生活といえば小さなBBQセットを買って肉を焼きまくった。いろんな方を招いて練習させてもらった(焼き方に失敗した肉を食べさせてごめんなさい)。妻とふたりでソーシャルをがんばった一年だった。ピックアップトラックを買って湖の近くの山小屋で、夏休みの孫と一緒に夏を過ごす自分のアメリカンドリームに一歩近づいたのではないかと思う。

アメリカ生活といえば息子ががんばっている。息子は9月からKindergarten(小学校0年生)、土曜日には日本語学校に通いはじめ、習い事もいろいろと始めた。秋の日曜日にはフラッグフットボール(タックルの代わりに腰につけたフラッグを取るアメリカンフットボールの簡易版)をはじめたりした。チーム名がRaidersだったので、オークランドに生のRaidersの試合を見に行ったりした(Chiefs相手にまさかの勝利をしそうになったけれど負けてしまった)。フラッグフットボールの保護者はいかにも昔アメフトやってましたという感じのパパが多く、みんな 185cm-195cm 90kg+ くらいの体格で、自分がまるで子供になったような感覚で衝撃を覚えた。

とうとう35歳になってしまった。30歳のブログ記事を読み返すと、記憶力という体力の低下が著しいと書いてある。体力も記憶力はもはや自分を信用してはいけないレベルに落ちている。体力は酷い。夜更かしして一仕事するか〜→寝落ち、というパターンが何度もあった。後述のように朝型()に切り替えたからかもしれない。

相変わらずコードは書いているが、最近はずっとPythonでライブラリやフレームワークに乗っかったハイレベルな処理しか書いていないので、コーディングスキルが実際に維持できているのか、低下しているのかはわからない。ただ、確実に集合開発とそれを意識したスキルは向上していると思う。ふとしたことからいまさらScalaデビューをしようと思ったのだが、結局時間を取れず。Pythonエコシステムに生きていると、どうしてもJava/Scalaの世界と離れてしまうので、イマドキのC++を学ぶほうがよいのかな、と思ったりもしている。

しかし、やはり既存の知識を使った作業の効率性についてはかなり高くなったと思う。10年目あたりからがキャリアとして一番効率よく成果をあげられる時期なのだろう。一方でスケールさせないといけないので、いつまでも一人で作業ではダメなのだけれど。そう言う意味では相変わらずフラフラしているのだが、、、。

人生35年目にしてとうとう朝型生活をはじめることができた。子供たちが朝食前にワークブックをやるのを見るために早起き()をし、子供たちを学校にドロップオフしてそのまま会社に行くようにした。朝ゆっくりなメンバーが多いので、オフィスに人がいない(または少ない)状態で午前中に自分の作業を中心に、午後はミーティングや議論を行うようにした。まだまだ改善の余地はあるものの、子供がいる生活においてようやくリズムらしいリズムをつくることができたと思う。その代わりと言っては当たり前だけれど、夜更かしをして作業ができなくなった。

そういえば娘が二回ほど緊急病棟のお世話になった。1回目は鼻にビーズを詰めて取れなくなり、小児科に行ったものの取れず緊急病棟に行くことを勧められ、緊急病棟で取ってもらい。2回目は風呂で転んで打った額がぱっくりと割れ、5針縫った。病棟の待合室でレッドソックスドジャースワールドシリーズ延長戦を家族みんなで興奮しながら観戦していた。勝ってみんな大喜び。他のレッドソックスファンとよろこびを分かち合う。いずれのケースも致命的ではなかったのと親がふたりとも対応可能な時間帯だったので落ち着いて緊急病棟に向かうことができたが、いち家族だけで外国に住むことの辛さを再確認した。アメリカの医療費はめちゃくちゃ高く、特に鼻ビーズまで緊急病棟にはかかったことがなかったので、病院から請求書が届くまではビクビクしていた。鼻ビーズを取るだけで$140。5針縫って$250だったかな。保険がなかったらいずれも5−10倍くらいかかった模様。鼻ビーズ事件以来、ビーズ嫌悪になり、見かけるたびに捨てるようにしている。

夏のインターン生のメンターをする。研究成果を少なくとも自分が納得する形でNAACLに投稿できたので、とりあえず一安心。前述したように、特に自分のところに来るインターン生は素晴らしい学生さんばかりで、うまくポテンシャルを引き出して良い成果につなげるということができないことがあったので、その点、今回は(新しい反省点はあるものの)うまく過去の反省点を活かせたと思う。今思えば、インターン生が優秀なおかげで、ほぼ毎日なにかしらの進捗がありミーティングや議論を行うことができた、というのが大きいと思う。コーディングから論文執筆まで他の共著者のサポートを受けながら二人三脚で進められた。しかしPhD最終年の優秀な学生ひとりで自分はいっぱいいっぱいなので、大人数の学生を指導している教員、特に学部生、修士学生がメインの日本の大学の教員の凄さたるや。そんな中、優秀な学生をインターンとして受け入れる企業は美味しいところ取りの気がするが、だからこそきちんとした成果にさせたいし、企業ならではの経験を提供できればと思う。

2017年にも書いたように、ついに息子が自分の英語の発音を注意するようになったのと、子供がphonicsを始めたので、自分も「正しい」アメリカ英語をきちんと学ばなければいけないと思い、秋からPronunciation 特化の英語クラスに通う。先生が理論的にアメリカ英語の発音について教えてくれて、これはめちゃくちゃ勉強になった。たとえば have to は hafta になり、want to は wanna、a cup of は a cupuv になる、というあたりを体系だって説明されると、安心して使えるようになる。特に wanna、gonna についてはカジュアル英語かと思ったら、大統領演説でも使われており、アメリカ英語ではそれ自体がカジュアルであることを意味しないらしい。ただ、強調する場合には have to, going to とひとつずつ発音することがある。これについては、ぜひまとめたいと思っているので別の記事で(こればっかり笑)。

日本語学校の友達に教わったのか息子がポケモンという概念を学び、とうとう6歳の誕生日にポケモンカードを解禁してしまった。ポケモンカードを買うときに、カードに書かれている文章を読むこと、と約束をしたところ、一気にリーディングスキルが向上した。当然知らない単語が出てくるので、それを辞書で調べたり(まだ自分では辞書を引けないので、代わりに引いて読ませる)してどんどんゲームに使われる単語を習得している。子供の意欲は凄まじいもので、あっという間にルールを覚え、カードに書かれている内容も読めるようになってしまった。いまは日本語の方が若干遅れているので、日本から日本語版も送ってもらってカタカナを読む練習をしている。日本語版、英語版を見て気づいたのが、なんとなく日本語版の方が言い回しが難しく、子供にはとっつきにくい気がする(日本語版で買ったデックが複雑な内容のカードが多いのかもしれない)。英語版の方が平易な言い回しになっている気がする。どうやらポケモンカードは日本では対象年齢が9歳以上、アメリカでは6歳以上になっていることから、やはりそうなのかもしれない。そういえば、日本語版で山札はデックと呼ばずに山札と読んでいるくせに、札を捨てるという表現が「トラッシュする」になっていて、なぜ捨てるという言い回しにしなかったのか、とちょっとムッとした。

今年のクリスマスは家族で The Grinch を見る。これは名作。Dr. Seussシリーズは何冊か持っていたけれど、せっかくの機会なので iOS で Dr. Seuss シリーズのオーディオブック機能つきアプリを早速購入。どうもリズムがいいなぁ、と思っていたら、どうやら特別な韻律 (https://en.wikipedia.org/wiki/Dr._Seuss#Poetic_meters) を多用しているみたい。日本語のように一文字一音節だと5・7・5のような文字で表現できるけれど、そうでないと非ネイティブには少しつらい。そういう意味でも音から言語を学んでいる子供たちにはぜひ頑張ってほしい(そして後で教えてもらおう)。

5年間をふりかえって

書き始める前は書くことが特に思い浮かばず、鉄道員(ぽっぽや)の日誌のごとく、各年「本年、異常なし」と書くのかなと思っていたのだが、思い返したら異常だらけだった。アメリカという地で人間として親として大きく成長した気がする。ここにも書いていない思い出はたくさんあるけれど、まぁ日々歯を食いしばってがんばった(がんばっている。)

アメリカ渡米前に @hitoshi_ni くんと @y_benjo くんが自分のために壮行会を催してくれて、いろんな方が参加してくれた。あのときに何をみんなの前で語ったか正確には覚えていないが、日本の意地をメリケンどもに見せつけてやんよ、みたいなことを意気込んでいたと思う。(マジレスをすると、自分のまわりにアメリカ人は想像以上に少なかった。)あれから5年が経ってしまったと思うと感慨深い。あの頃の自分が今の自分を見てどう思ってくれるだろうか。主にTwitterごしで活躍を見ているのだけれど、前職のみなさまも5年の間に壮行会で送り出してくださった皆様も大活躍で、自分がカッコつけたことを言って日本を後にしてしまった手前、恥ずかしくておめおめと帰れなくなってしまった感があるのはここだけの話(通称谷沢ジレンマ)。@maropu の結婚式二次会のために練習したゾンビのものまねだけはちょっとだけ誇れるのかな、と思っている。

2018年が就職してからちょうど10年にあたり、最初の5年を第一部とすると、ちょうど第二部が終わったことになる。たしかにちょうどこの5年はアメリカでの生活が始まり、ちょうどキャリアの第2部と呼ぶにふさわしい気がする。2人目の子供が生まれ、上の子供が kindergarten に入り、いろいろと習い事をはじめるという意味でも親業の第2部でもある。アメリカ生活と英語についてはまとめてみたいと3年くらい前から考えていて、近いうちにまとめられればと思う。特に30歳を超えて、子持ちでアメリカに引っ越してもなんとかなる(なんとなっていないかもしれない)ということを示せればと思う。

今後については本当にどうなるかわからないが、とりあえずは5年後のキャリアを意識した振る舞いとスキルセットの獲得を考えねばと思っている。なんかずっとそんなことを言っている気が。

2019年の抱負

抱負は抱負をいだいた時点でそのとき既に行動は終わっている、と某プロシュート兄貴がおっしゃっていたので、部分的には明日から始めたいと思う(予定)。

  • 継続的な研究テーマの立ち上げと遂行
  • 朝型生活の継続。仕事前のジム。
  • 読書!まずは10冊から。
  • ライティングスキルのさらなる向上。

昨年はサポートメンバーで手伝う研究テーマと自分が主体的に進めるテーマを2つうまく進めることができたと思う。今年も引き続き自分が一人称で行う研究と、インターン生などが行う二人称の研究。これを並行して継続的に行うことが第一歩だと思う。これについては以前から考えていたネタをもとにいくつか研究テーマを考え中なので、それを形に持っていければと思う。

朝型生活については最近オフィスのビルにジムが設置されたので、そこで仕事前にひと運動してから仕事をするのがよいのではないかと思う。できればまたハーフマラソンを走りたいと思っている。丸2年ジョギングすらしていないが、、、。

読書量は就職してからずっと低下し続けている。2018年は9冊だったようだ。ぞっとする。渡米後から特に英語の本を読むようにしているために読書量が低下している原因になっている気がする。言い訳でしかないが。今年は読書量のV字回復を目指したい(読みたい本はたくさんある)。

今年は特にライティング強化したい。さすがに渡米5年目、ここ2年は仕事ではずっと英語なのでライティングスキルはだいぶ上がった気がするが、英語の発音と同じで特別な訓練をしないと伸びない部分があるので、ライティング強化年間にしたい。特に(1)レポート、プロポーザル、論文原稿の第一稿を早く書き上げるスキル、と(2)それを(ストーリー修正含むパラグラフレベルでの修正)二稿に持っていくスキルの2つを強化したいと思っている。