究極の英語学習法、三鷹メソッドのすすめ
アメリカに来て5年目になるが、ときどき「どうやって英語を勉強したの?してるの?」と聞かれることがあって、その度に「子どもに教わっている」と答えている。これは冗談ではなく事実で、実際に自分は子どもとの会話を通じて英語を訓練しており、その方法をこれから説明する「三鷹メソッド」という究極の英語学習法の枠組みで説明したいと思う。
三鷹メソッドはあらゆる言語に適用可能である "汎用的な言語学習方法論" であるが、本記事では自分の経験に基づき、英語の例で説明しようと思う。
三鷹メソッドに必要なもの
三鷹メソッドに必要なものはたったふたつ。
- 外国(たとえばアメリカ)に住んでいること
- 現地の学校に通う(予定)の子ども
これだけである。いやいやいや、この記事を読んでいる中でこの条件を満たす人がどれだけいるんだ、というツッコミがあるだろう。まぁ、ぜひネタ記事だと思ってどうか最後まで読んでほしい。
三鷹メソッドとは?思いついたきっかけ
自分はアメリカに引っ越して5年目になるが、渡米当時、上の子供は2歳半、下の子供は生まれたばかりであった。先日の振り返り記事(5年間をふりかえる(2014年〜2018年) - シリコンの谷のゾンビ)も書いたとおり、アメリカに住み、英語で仕事をしていてもなかなか英語力が伸びずに苦労していた(している)。よく土日に友達と遊んで英語力を伸ばすという話を聞くが、家族持ちは土日は家族と過ごすために、どうしても日本語漬けになってしまう。家族ぐるみの友人(英語のネイティブスピーカー)をつくるというのはひとつの正しすぎる解であるが、夫婦ともにソーシャル力の低い我々にそんなことはできなかった。
そんな中、プレスクールに通い始めた息子はどんどん英語力を伸ばし、あっという間に自分が聞こえない童謡の歌詞も聞き取れるようになっていた。自分が認識できないLとRの音の違いも認識している。このままアメリカに住み続ければ、彼はきっとネイティブスピーカーになるであろう。子供の成長に感動するとともに、ひとつの考えが思い浮かんだ。
「そうだ、こいつの英語スキルについていけば、いつか自分もネイティブスピーカーレベルになれるのではないか?」
そういえば、小さい頃にじっちゃんに教えてもらったことを思い出した。忍者は跳躍力を養うために、木の芽を植え、成長する木の芽を毎日飛び越し続け、ついには大木をも飛び越せるようになる、と。そうだ、忍者になろう!
子供の話す英語はたびたび幼児言葉であるため、とても聞き取りづらい。それでも子ども同士ではコミュニケーションが取れているようであるし、先生も理解しているようだ。すなわち、これは訓練でどうにかなるはず。そして、その訓練は特殊な職業につかない限り、純ジャパニーズの我々には一度しかない。そう、今しかない。
さらに、海外移住をした親が、無事ネイティブスピーカーに育った子どもたちに言葉でバカにされるという話をしばしば聞くので、
「英語が下手なことで、子どもにバカにされるのは悔しい。英語での議論になって言い負かされないだけの英語力を身に着けておくべきだ。」
という強いモチベーションもあった。
具体的に自分が行ったことは、日常生活においても自分の子どもと英語で話すことだけである。ただ、上の子どもがKindergarten(幼稚園年長、この年齢から小学校に入る)に入り、いわゆる学校教育というものが始まりってきたので、ただ話すということから一段階ギアが上がったように思う。
そのため、子どもと英語で話すようになってからの2年間を振り返ると、三鷹メソッドには以下のような段階があるように思える。それぞれについて簡単にまとめる。
- (レベル1)日常のコミュニケーションを英語で行う。
- (レベル2)今日あったことについて話してもらう。それについて話す。
- (レベル3)こういうときにどのように話すのか、英語について質問をする。
- (レベル4)子どもが知らない言葉の意味を英語で説明する。
- (レベル5)英語で叱る。正しい英語を話すように伝える。
ただ、後述するようにすべてを英語で使って行うことが絶対的に正しいとは思っていないので、叱る際には日本語を使ったり、日本語学校に行く日は徹底して日本語を使うなど、いろいろと模索中である。
(レベル1)日常のコミュニケーションを英語で行う
想定する子どもの英語レベル:英語をよる指示を理解できるレベル。
間違った英語でもよい。ただ、ひたすら子どもとのコミュニケーションを英語で行う。たとえば、早く寝なさい、服を着なさい、靴を履きなさい、ブロッコリーを食べなさい、それを取って、みたいなフレーズがよく出てくる。これは英語そのものの訓練というよりも状況に応じて脊髄反射的に英語フレーズを使うということの練習という効果が強い。
このレベルでは自分は正しい英語を使う必要はない(使えるに越したことはない)。ただ、日常的に「こういうときどういうフレーズを使うんだろう?」というような気持ちが湧いてくるので、絵本や幼児向け番組に出てくるフレーズを意識して覚えようとし始める。これらをマスターして、子どもに対して使うのはレベル5になってから。
(レベル2)今日あったことについて話してもらう。それについて話す
想定する子どもの英語レベル:英語を使って何かを話せるレベル。3歳以上でプレスクール等、現地の言語に触れる環境に通っていれば3ヶ月もあれば、このレベルに達すると思われる。
学校のあと "How was your school today?" "What did you learn today?" というような質問から始める。このようなオープンな質問だと99%の子どもは "good." とか "I don't know." としか答えないので、もう少しクローズドな質問をしながらいろいろ聞き出す。子どもはたいてい面倒くさがって答えようとしないので、どのような聞き方をするかについては、英語力というよりも親としての訓練として重要な気がする。
どんな友達と遊んだのか、何をして遊んだのか。質問をすることによって、会話の練習をする。相手が子どもなので、何度もいろんな聞き方を練習できる。このあたりから自分たちが知らない単語を子どもが発することが出てくる。
この年齢の子どもたちは親から同じことを何度聞かれても「チッ、うっせーな」みたいな態度を見せないので、そういう意味でもこのレベルで、将来あまりに同じことを英語で聞きすぎて「チッ、うっせーな」と言われないレベルまで上げておきたい。
(レベル3)こういうときにどのように話すのか、英語について質問をする
想定する子どもの英語レベル:状況に応じて適切なフレーズを使い分けられるレベル。4−5歳で半年以上も学校に通っていれば、このレベルに達すると思われる。
現地の大人の言葉にある程度以上触れてくると、状況によってどのようなことを言えばよいのかということを体系だって覚えてくる。子どもが学んだフレーズについて「こんなとき、先生は何て言っていってたの?」というような聞き方で教えてもらう。
この年齢の子どもは大人の発言を「丸コピ」する傾向があるので、丸コピしたセリフを教えて貰う。子どもたちのコピー元にも依存するが、ここで得られたものはレベル4、レベル5に活きていくる。
また、これができるということは、すなわち子どもたちに単語の正しい発音についても教えてもらえるようになる。学校では単語のつづりより先に phonics と呼ばれる発音の練習から始まり、まさしく言語を音から学習する。そのため、特に学校に通いはじめると子どもはすぐに正しい発音をマスターする。
自分の経験を話すと Mountain の t は flap-t と呼ばれ、実際には発音されない、というようなことを自分が通っていた英語クラスで習ったので、息子に「Mountain View の Mountain はどういう風に発音するの?」と発音について聞いたら、view の v の発音が b に近かったらしく「Mountain Biew って何?Mountain View?」と突っ込まれた。自分はネイティブじゃないからわからなかったし、文脈から明らかだと思ったけれど、本当にこの子はvとbを別の音として認識しているのだとわかって感動した。そして、ネイティブスピーカーには、それこそ日本語で東京のことをトーキォとか発音してしまうような感じで聞こえているのかな、と思った。それ(bとvの違い、lとrの違い)を認識できる能力を持たないのにスキルとして到達しなければいけないという事実を知ったという意味でぞっとした。
子どもたちは音で覚えているので、どういう響きがネイティブスピーカーにとってナチュラルに聞こえるのか、という感覚を持ち始めている。そんなわけで自分は息子をある種の「ナチュラルな英語表現認識・分類API」と見ている。
(レベル4)子どもが知らない言葉や概念の意味を英語で説明する
想定する子どもの英語レベル:Kindergarten以上。言葉で説明された概念を理解できる能力があること。
さて、ここから急に大人側の難易度が上がり、こちら側の準備と訓練が必要になる。4−5歳あたりから子どもは「あれは何?」「これは何?」「どうしてAはBなの?」みたいな質問をしてくるようになる。Kindergartenに入ると本を読むようになり、知らない単語について質問をしてくる。
これらについて(できれば正しい英語で)答えられるようにする。これは相当な訓練になる。特に知らない単語について、「子どもが知っている単語で」答えるのは難しい。自分が知っている言葉で説明しようとすると、子どもにとって未知語が出てきて「それは何?」の連鎖が止まらなくなる。
これについては、幼児向け辞書を買ったので、その定義を引用するようにしている。辞書が手元にある場合には、子どもに単語の意味を聞かれたら辞書を引いてそれを答え、次回以降はその定義を説明できるようにしている。自分は子ども用にAnkiのアカウントをつくり、そこに子ども用の単語帳をつくっている(が、実際に使うのは自分である)。言葉の定義の確認と説明は、非ネイティブの自分が似た意味の単語の違いを改めて学ぶ機会にもなるので、これ以上の練習はない。
うちでは以下の辞書を使っている。幼児向けの辞書はこれとMerriam-WebsterとAmerican Heritage あたりが人気の様子。

Scholastic Children's Dictionary
- 作者: Scholastic Inc.
- 出版社/メーカー: Scholastic
- 発売日: 2013/07/30
- メディア: ハードカバー
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この辞書は小口にアルファベットが記載されていないので本を開かないと位置がわからない。自分はそれが気に入らなかったけれど、それ以外は気に入っている。本屋に置いてなかったので図書館に行ってMerriam-Websterと二冊から子どもに選ばせたらこっちを選んだのでAmazonで購入。子どもは中の絵が気に入ったようだ(重要)。
あとは息子は算数を学校で習っているので、算数のワークブックなどを勉強するのを英語で手伝っている。技術系の仕事をしていると計算について英語で説明する機会があるものの、ネイティブレベルに説明できるほど十分には機会がないので、とても良い練習になっている。しかし、数字に関するところは実は悩んでいて、英語で算数を学んだ帰国子女が、日本に帰ってから日本語で数学を学んだものの、数字の計算はどうしても英語で行うクセが抜けず大変苦労したという話を聞いた。なので、数字を扱う言語はに関しては単一言語に固定するのが望ましいと思っている。が、いまのところ日本帰国の予定がないし、息子に関してはすでに学校教育がはじまってしまったので、うちの子どもたちに関しては英語でやってもらおうというのが自分たちの方針。
もうひとつ自分が実際にやっているのは、(ボード)ゲームのルールを英語で行うというものであった。実際にSorry(アメリカで定番のボードゲームらしい)、カタン、Dixit、チェスとポケモンカードを一緒に遊んでいて、それらのルールを全部英語で説明した。たしかボードゲームにはじめて触れたのが5歳になったばかりで、ルールを理解してそれに従うということがなかなかできなかったので、手札をオープンカードにして、こちらから誘導しながら遊ぶというパターンで遊んでいる。Dixitは対戦相手をだますように絵札を説明するゲームで、これは明らかに5歳には早すぎたので、しばらくお蔵入り。驚いたのは、カタンはルールを簡略化し、サイコロの目の足し算の訓練とパターンマッチの練習として遊んでいるだけだったけれど、彼は都市を作るのが好きなので鉄と麦をひたすら集める傾向にあって、戦略の好みが出てくるのが面白かった。本人がポケモンに大ハマリしていることもあり、ポケモンカードは特に効果的だった。カードの説明を読み上げて意味を理解できないと遊ばないよ、という制約をつけたところ、本人の語彙力とリーディングスキルが恐ろしいほど向上した。自分が opponent の発音を直されてショックを受けたのもポケモンカードで遊んでいたころである。
ルールの説明は、おそらく職種によらずどんな仕事でも役に立つスキルである。必要な情報の大枠を伝え、いま与えた情報をもとに順序立てて説明する。なんというプレゼン訓練だろう。職業柄プレゼンをする機会が多く、特に職場だとパワポなしでサマリを口頭で伝える機会が多く、特に後者が苦手だったが、子どもとボードゲームで遊ぶようになってからこれらのスキルが著しく向上したように思える。プレゼン以外の観点でも自分の持っている語彙を使って何かを説明するというのは語学においても相当高度な練習だし、直接子どもの学力向上にもつながる感覚があるので、楽しい。なによりもゲームに関していえば、自分の遊び相手ができるので超楽しい。
(レベル5)英語で叱る。正しい英語を話すように伝える
想定する子どもの英語レベル:Kindergarten以上。
子供に対して汚い言葉遣いを注意する。振る舞いを英語で叱る。レベル1とも重なっている部分があるが、違いはレベル5においては自分が正しい英語を使い、子どもの不適切な振る舞い、言葉遣いを注意する。
これはとても難しい。言葉遣いについては、明らかな下品な言葉については叱ることができるものの、意味は通るが不適切な言葉遣い、よりより表現がある言葉遣いについてはネイティブスピーカーでないと難しい。
よりよい言葉遣いの例として、学校の担任に教わった "stuff" という言葉を言い換えようというものがある。モノという意味で、dude(特に意味はない。manやbroと同じように文の後ろにくっつける。カリフォルニアの若者が多用するといわれるスラング) と並んでここらへんの小さい子どもの大好きワードである。しかし、その先生は "stuff" は lazy word だからもっと具体的なものの名前を言及するように指導していた。「机の上のそれ取って」という言葉遣いに対して「それじゃなくて物の名前をきちんと言いなさい」というような指導だろう。
この他に状況に応じてマナー的に使うべき言葉というものがあるだろう。これについては子供が学校で学べる範囲については、親が吸収をして注意できるようにしたいが、ネイティブスピーカーの親たちも自分たちの親から学んだ文化的背景が多分にあるので、レベル5は正直、非ネイティブスピーカー家庭だけでは難しい。
ほんの一部ではあるが、他の親がどのように子どもに話しかけているか、注意しているのかということも参考になる。子どもが通う学校の朝礼で校長が話を聞いていない子どもを注意する方法も参考にしたりしている。いわゆる「大人が子どもを諭すように注意する方法」を学べる貴重な機会。
しかし、日本人や自分たちの考えとして、こういう状況においてはこのように振る舞うべきだという説教を適切な英語で伝えることはできるので、それをするようにしている。そのため、このレベルをクリアすると、小学校の先生と同じレベルで子どもたちに教育ができるようになるはずだ。それだけそのハードルが高いということを意味する。
おそらく、これ以上の最後?のレベルとして、「(レベル6)英語で哲学的もしくは抽象的な議論を行う」や「(レベル7)エリアごとのアクセントの違い、コミュニティごとの言葉遣いの違いを認識し、それを議論する」というものがあるかもしれない。子どもと一緒に哲学的な話ができたらとても楽しいだろう。自分の究極のゴールは完璧なボストンアクセントを習得することなので、アクセントの違いを正確に認識し、それを真似することができれば、おそらく発話スキルという意味では究極のレベルに達するのではなかろうか。
おそらく小学校高学年、もしくは中学生くらいになるまではこれ以上のステップは難しいと思われるので、まずはそれまでにレベル5を徹底して訓練したいと思っている。自分の子どもはすでに自分が間違える発音に対してワザと理解できなかったフリをするようになってしまった。舐めようとする子ども、舐められまいとする親の戦いの火蓋は切って落とされた。
三鷹メソッドのデメリット
もちろん、三鷹メソッドのデメリットもある。特に海外在住の日本人は、家庭では日本語のみを話すべきだ、という話をよく聞く。というのも、中学生以上になると、子どもたちは常に英語コミュニケーションにされされ、日本語を話すモチベーションも減るので、とにかく家庭では徹底して日本語を話し、子どもたちをいちはやく日本語ネイティブスピーカーにするべきだという話をよく聞く。
また、言語教育の観点からは「臨界期まで複数言語を入れるべきではない」という考えもある(自分が大学生の頃まではそれが定説だったような)。一方で、最近の研究成果では、むしろ多言語環境で育った子どもの方が語学だけでなく、学力の観点でもプラスの効果があるということも言われている。これについては、もはやケースバイケース以上のなにものでもないと思う。うちの子どもの場合は、親が英語ネイティブではないので、バイリンガルになれる保証はないし、かといって純粋日本語ネイティブスピーカーになれる環境でもなく、混じってしまう。
そんなわけで、我が家の場合は、子どもたちに対して妻(日本語ネイティブスピーカー)が日本語、自分が基本的に英語(日本語を話す文脈では日本語)で話すようにしている。自分が知っている親のひとりが英語ネイティブ、もうひとりが日本語ネイティブといういくつかの家庭においては、片方が日本語、もう片方が英語を使って子どもたちに話すというケースを聞く。面白いことに親が自分のネイティブ言語を話すパターンだけでなく、親が自分たちの練習のためにあえて非ネイティブ言語を使って子どもたちと話すというケースを二例ほど聞いた。これぞ、まさに三鷹メソッドである。
自分が今後がどうなるかわからないので、子どもがバイリンガルに育つのか、はたまたさっさと日本に帰ることになるのか全くわからないのだけれど、子どもの言語習得、特にアイデンティティの観点からは、以下の本を読んで「なるほど」と思ったので、ここに加えておく。

- 作者: 櫛田健児,奥万喜子
- 発売日: 2015/04/26
- メディア: Kindle版
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本書ではバイリンガルを2つの言語を操れること。バイカルチャーを、2つの異なる社会文化的な要素を理解し、それらに自由自在に対応できることと定義している。
本書の主張は、自分が経験した文化を一度外から眺めることを通じて「外からの視座」を獲得してバイカルチャーになっていくというもの。帰国子女の場合には、まず海外経験をすることによって日本人というアイデンティティを外から眺め、帰国後に、経験した外国文化を外から眺めることでバイカルチャーとしての素養を獲得していくとのこと。
本書の中でおやっと思ったのが、どうやら帰国子女ということであるだけで、自分たちが純粋な日本人としてのアイデンティティを失い、ある種の後ろめたさを持って暮らしていたという声が書かれていたこと。自分は帰国子女ではないので気持ちはわからないけれど、本書の中には日本人のアイデンティティを意識するあまり、帰国子女であることを一切隠して生きてきたという人の話が書かれていた。
ということを読んで我が子たちを眺めて、彼らにそういう気持ちがいったい芽生えるのかわからないけれど(おそらく思春期の頃に話せるのではないかと思っている)、アイデンティティという意味では残念ながら、彼らはもう純粋な日本人にはなれないので(そして純粋なアメリカ人にもなれない)、親としては辛いこともあると思うけれど、ぜひバイカルチャーな人間になってほしいなぁ(そして自分にいろいろ教えてほしいなぁ)、などと甘っちょるいことを考えている。
名称の由来
三鷹メソッドの名称は、高橋留美子の名作「めぞん一刻」に登場するイケメンテニスコーチの三鷹瞬に由来する。主人公五代の恋のライバルだが、大嫌いな犬の登場によってひきつけを起こしし、音無響子のプロポーズの返事をもらい損ねたり、犬を怖がって見合い相手にはからずも抱きついてしまうなど、犬に人生を翻弄され続けた三鷹は犬嫌いを克服するためにマッケンローと名付けた小犬を飼い始め、ついには犬嫌いを克服するというくだりで、忍者の訓練方法になぞらえて三鷹メソッドについて説明している。
著作権の問題で画像は載せられないが、自分の叔父に対して、犬嫌いを克服した際の方法について語る三鷹のセリフを引用する。
三鷹「忍者は跳躍力を養うために、成長する木の芽を、毎日飛び越し、ついには大木をひとっ飛び。」 三鷹「犬だって同じです。小犬の頃から徐々に慣れていけば…」 三鷹「ふっふっふ、試みは大成功でした。」
忍者が跳躍力を鍛えるために木の芽を植えて、それを飛び越えるというネタは他にもどこかで見た記憶があって、日常会話の中でも使ったことがあったのだけれど、あまり知られていないネタらしい。最初はニンジャメソッドとか呼ぼうと思ったけれど、結局めぞん一刻の三鷹の話しか出展を見つけられなかったので、大好きなめぞん一刻と、三鷹さんに敬意を表して三鷹メソッドと名付けた次第。
この話にはオチがついているんだけれど、やっぱり何度読み返しても三鷹さんいい人すぎる&かわいそう。
めぞん一刻は、中学生の頃にクラスメイトに全巻貸してもらって読んで以来、間違いなく人生トップ3に入るくらい大好きな漫画。今時の若い人には受けないのかもしれないけれど、平成も終わることだし、昭和の臭いがプンプンする名作を読んでみてはいかがだろうか。ちなみにこの話が出てくるのは第11巻の「ドッグ・ホリデー」。

- 作者: 高橋留美子
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2013/06/28
- メディア: Kindle版
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元ネタを調べると自分に言い訳をしてポチッてしまった Kindle でのまとめ買いはこちら。
まとめ
またもや長文になってしまった。そんなわけで、究極の英語学習法、三鷹メソッドを紹介した。自分は三鷹メソッドのおかげで、自分の子どもの友達と喋れるようになったし、親とも喋れるようになったし、職場でも喋れるようになった。なにより自分自身が子どもから学ぶ態度ができたおかげで、子どもとのコミュニケーションがさらに増えたように思える。子どもの世話を自分が一方的にしてやってるんだ感が薄れるという意味でも良い。英語とか関係なしにその態度を取るべきなのは頭ではわかっているんだけれど、まぁ自分はそんなにできた人間ではないので、やっぱり自分自身にプラスになっているということは素直に嬉しいし、モチベーションになる。
同じようなことをやっている人がいたらぜひ意見交換をしたい。
株式会社オメラスから歩み去る人々
けたたましい最高益達成を知らせる鐘の音におどろいた燕たちが空へ飛び立つのといっしょに、ここIT企業、株式会社オメラスの広大な敷地、華麗な社屋の建ちならぶ海のほとりに、<春の祝祭>がおとずれる。港の社有クルーザーは、色あざやかな旗をその張り策にはためかせる。
ちょうど頃合いの風が、社屋の目の前に立った社旗を、ときおりばたばたとはためかせる。広い緑の牧草地の静けさのなかで、社屋の間の路をうねり進む楽の音が、遠くまた近く、そしてたえず近づきながら聞こえてくる。陽気でかすかな甘味をふくんだ空気は、ときおり大きく喜ばしげに打ち鳴らされる鐘の音にふるえ、わっと集まってはまた散ってゆく。
喜ばしげに!その喜びをどう語ろう?オメラスの従業員をどう描写しよう?
彼らは幸福だが、決して単純な人たちではない。しかし、もはや私たちは称賛の言葉をあまり口にしなくなってしまった。こんな話を聞かされると、筋骨たくましい新入社員たちのかつぐ金色の輿に乗ったワンマン社長が、しずしずと現れるにちがいないと、予想しがちだ。しかし、ここにはワンマン社長はいない。彼らは下請けも使わず、契約社員も置いていない。彼らは社畜ではない。理不尽なノルマやパワハラ、セクハラが排されているだけではなく、ここには社内政治も、サービス残業も、労働組合も、不正会計もない。しかし、くりかえすが、彼らは決して単純な人たちではなく、またうるわしい中間管理職でも、高潔な社内ニートでも、退屈な企業戦士でもない。彼らは私たち同様に複雑な人間だ。
信じていただけただろうか?この超絶ホワイト企業と素晴らしい人々を、この喜びを、受け入れていただけただろうか?だめ?では、もう一つこのことを話させてほしい。
オメラスの美しいあるビルの地下室に、一つのサーバルームがある。部屋には錠のおりた扉が一つ、窓はない。わずかな光が、ラック群のすきまから埃っぽくさしこんでいるが、これはサーバルームのどこかむこうにある蜘蛛の巣の張った窓からのお裾分けにすぎない。
その部屋の中に従業員が坐っている。男とも女とも見分けがつかない。年は五十歳ぐらいに見えるが、実際にはもうすぐ三十歳になる。その従業員はシステム管理者だ。
そのシステム管理者はもとからずっとこのサーバルームに住んでいたわけではなく、日光と上司の声を思いだすことができるので、ときどきこう訴えかける。「障害対応するから、出してちょうだい。障害対応するから!」彼らは決してそれに答えない。そのシステム管理者も前にはよく夜中に助けをもとめて叫んだり、しょっちゅう泣いたりしたものだが、いまでは、「えーはあ、えーはあ」といった鼻声を出すだけで、だんだん口もきかなくなっている。そのシステム管理者は脚のふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。食べ物は一日に一箱のカロリーメイトと一本のレッドブルだけである。そのシステム管理者はすっ裸だ。
そのシステム管理者がそこにいなければならないことは、みんなが知っている。そのわけを理解している者、いない者、それはまちまちだが、とにかく、従業員たちの幸福、この職場の美しさ、彼らの友情の優しさ、彼らの新入社員たちの健康、研究員たちの知恵、ソフトウェアエンジニアたちの技術、そして豊作と温和な会社業績までが、すべてこの一人のシステム管理者のおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。
このことは、従業員たちが入社二年目から三年目のあいだに、理解できそうになったときを見はからって、ベテラン従業員の口から説明される。そんなわけで、サーバルームのシステム管理者を見にくる者には、ときどきそれが何度目かの従業員も混じっているが、たいていはその年ごろの若手従業員である。いくら念入りに事情を説明されていても、年若い見物人たちは例外なくそこに見たものに衝撃をうけ、気分がわるくなる。彼らは、これまで自分たちには縁がないと思いこんでいた嘔吐をもよおす。どう説明されても、やはり彼らは怒りと、憤ろしさと、無力さを感じる。そのシステム管理者のために、なにかをしてやりたいが。だれ、彼らにできることはなにもない。もしそのシステム管理者をこの不潔な場所から日なたへ連れ出してやることができたら、もしそのシステム管理者の体を洗いきよめ、おなかいっぱい食べさせ、慰めてやることができたら、どんなにかいいだろう。だが、もしそうしたがさいご、その日その刻のうちに、株式会社オメラスのすべての繁栄と美と喜びは枯れしぼみ、ほろび去ってしまうのだ。
時によると、サーバルームのシステム管理者を見に行った新入社員のうちのだれかが、泣いたり怒ったりしてオフィスに帰ってこないことが、というより、まったくオフィスに帰ってこないことがある。また、時には、もっと年をとった従業員の誰かが、一日二日だまりこんだあげくに、ふいとオフィスを出ることもある。こうした人たちは通りに出ると、ひとりきりで通りを歩きだす。彼らはそのまま歩き続け、美しい門をくぐって、オメラスの敷地の外に出る。
彼らはオメラスを後にし、暗闇のなかへと歩みつづけ、そして二度と帰ってこない。彼らがおもむく世界は、私たちの大半にとって、幸福の会社よりもなお想像にかたい世界だ。私にはそれを描写することさえできない。それが存在しないことさえありうる。しかし、彼らはみずからの行き先を心得ているらしいのだ。彼らーーー株式会社オメラスから歩み去る人びとは。
ーこの世のすべてのシステム管理者に尊敬と感謝の念を込めて。
元ネタ
元ネタはゲド戦記の著者で知られるアーシュラ・K・ル=グウィン短編集に収録された「オメラスから歩み去る人々」。原題は "The ones who walk away from Omelas" 。倫理の授業などでよく題材にされているようだ。

- 作者: アーシュラ・K・ル・グィン,丹地陽子,小尾芙佐,浅倉久志,佐藤高子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1980/07/25
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数年前に流行ったマイケル・サンデル教授のこれからの「正義」の話をしようでも取り上げられている。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: マイケルサンデル,Michael J. Sandel,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/11/25
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第二章「第最幸福原理ー功利主義」において、功利主義への反論のひとつ「個人の権利」として「オメラスから立ち去る人々」が引用されている。
5年間をふりかえる(2014年〜2018年)
どうやら最後にふりかえり記事を書いたのが2013年だったので、どうやら丸5年間ふりかえっていないことに気づいた。ちょうどはてなダイアリーをはてなブログに移行したことだし、5年間のふりかえりをしてみることにした。思いがけず長文になってしまったので、誰が読むんだろうと思いつつも、自分用の記録として残しておく。
2014年
人生の転機と言える年だろう。6年間務めた前職を辞めて転職、そして年末に渡米。2歳の子供がいて、妻も妊娠していたこともあり、1年早くても1年遅くてもこの決断はしなかったように思える。前職の思い出をふりかえると、とにかくかけがえのないものを学んだ6年だった。大企業ならではの堅苦しい制度については批判の方が多いが、その経験こそアメリカ生活で大きく役に立っていると断言できる。2018年後半には同じ会社を退職した人々が某社に対して批判的なブログ記事を書いて世間を賑わせていたが、自分に関して言えば人生をやり直してもやはり新卒で同社に入りたいと思う。「シリコンバレーで生き残る方法はすべて某TTで学んだ」という釣りタイトルでブログ記事でも書こうと思っているくらいである。自分はまだきちんと生き残ってるすらいないので、きっと5年後くらいに書くのかな。
さて、この年のはじめからカナダ人のインターン生を受け入れており、後輩指導を含めてとても良い訓練になった。一本研究会論文を発表したものの、自分にもう少し能力とスキルがあれば、もっとよい成果を目指せたと思っている。インターン生を最後まで面倒を見れなかったので大変申し訳無く思っている。引き継いでいただいたNさん、Tさんには感謝の言葉もない。初音ミクの大ファンということもあり、退職後にコンサートチケットをプレゼントして一緒に初音ミクコンサートに行った。初音ミクコンサートは初めてで、一緒に参加したYくんに借りた光る棒(なぜ複数本持ってきてたんだ?予備を持ってくるのは当たり前なのか)を見よう見まねで一心不乱に振ったのは今でも最高の思い出。
転職後の3ヶ月間だけ東京と銀座のオフィスで勤務。田舎のネズミが都会のネズミになった。いろいろな部署の方々と会い、会社によってこれほど文化が違うのかと大きくカルチャーショックを受けたことを記憶している。
その後、12月15日に単身極寒のボストン空港におりたち、ホテル住まいをしながら物件探しと生活の立ち上げを始めた。アメリカで初めて訪れた店であるCentral st.近くのWalgreensの店員が発した言葉(Do you have Walgreens' card? という意味でcard?と聞かれた。自分にはcar?と聞こえた。)が理解できず、何度聞き返しても言い直してくれないぶっきらぼうさと、己の英語力のなさに早くも絶望して、32歳にして公の場で泣きそうになった(心の中では泣いていた)。スノーストームのため2日ほど電車も止まり、ホテルの部屋で孤独感と戦いながらファミリーサイズの小包装スニッカーズを齧っていたのは今でも良い思い出。なぜホテル併設のレストランに行かなかったのか。タクシーやUber(当時からそれなりにボストンでは利用可能であった)を使ってどこかに行かなかったのか謎。Walgreensの店員が相当怖かったのか。追い詰められた際にひとりになるな、の典型的なパターンである。後日談だが、依頼した写真印刷がプリンタが壊れているという理由で期日に準備できておらず、連絡もなかったため無駄足を踏んだなど、ボストンのWalgreensにはまったく良い思い出がない。そんな期待値でベイエリアに引っ越してから立ち寄ったWalgreensで店員に「May I help you?」と声かけされたときには驚いて思わずThank youと言ってしまった。ビバ西海岸である。しかし、ベリエリアとボストンどちらが好きかとよく聞かれるのだけれど、何も理由を説明できないけれど、ボストンのあの雰囲気が無性に恋しくなる。
ホテル滞在中に上述のインターン生がインターンを終えるというので "May the Miku be with you" という言葉で締めくくるビデオレターを送る。10回くらいリテイクした。陽気な感じの内容になっているが、その裏で自分は上述のような状態であった。30歳を超えるとどのようなキャリアを積んでいても、何かしら1ラウンドは経験しているもので、変化に対するショックや己の無力感はけっこうなダメージだと思う。自分は割と変化やショックに強い方だと思っていたが、そんなことはまったくなかった。メンタルはボロボロ、不安でいっぱいだった。
大学では二人部屋が与えられ、オフィスメイトのXに出会う。同じアジア人で、近い年齢ということもあり、価値観が近く、Xのおかげでカルチャーショックを受け続けてぼろぼろになりつつもなんとか持ちこたえられた。彼がいなかったら間違いなくメンタルをやられ、アメリカ怖いもう行きたいない状態になって日本に帰っていたと思う。クリスマスにXの家で手作り料理を振舞ってもらい、ふたりでiPadを見ながらるろうに剣心について話したのは今でも良い思い出。
海外留学や赴任をこれからする人に言っているのは、受け入れ先の教授やボス以外に、(理想的には)ツーマンセルで動けるようなメンターまたは同僚がいることは超重要と言っている。もちろん、ほとんどの人がそんな人がいなくてもやっていけるのだろうけれど、いることによるマイナスはほぼないので、リスクを減らすという意味でもいることを担保しておいた方がよいだろう。
2015年
そんなわけでボロボロのスタートで大きな不安と大きな期待感で始まった2015年。総括するとなかなか思うような成果を出せずにもがき続けた一年だった。今この年をやり直せれば5倍から10倍は有効に使えたと思うくらい色々と無駄にしてしまったと思う。しかし、この年経験した「数々の失敗」はその後につながりかげがえのないものになっている。そして、なんだかんだいってこの年に生まれたいくつかのアイディアが苦労の末、2018年にはTISTとCSCWで論文化したので、大切なのは成果という形まで持っていく根性と気合ということも学べた。その意味でも特にXとS教授からは多くのことを学んだ(のだけれど、それを明確に認識するのは2年くらい経ってから)。
1月末に娘が日本で生まれ、出産に立ち会うことができず日付が違ったので「娘が明日生まれた」という状況が起こった。出生届の提出とビザ取得のために一瞬だけ帰国、また戻って4月に家族と一緒に引っ越し。人生でこれほどバタバタすることはないだろうと当時は思ったのだけれど、2016年にもっとバタバタする生活が待っていた。
家族が合流してからは家族と共に慣れないアメリカ生活に苦しんだ。しかし、小さい子供を連れているとみんな優しくしてくれるので、その点はイージーモードだった。後述するが、小さい子供がいると親同士の交流が発生しやすいのでソーシャル力が低くても知り合いをつくる機会が持ちやすい。その意味でもある意味小さい子供と一緒にアメリカに引っ越すのは良いタイミングなのかもしれない。アメリカで出産できれば国籍がげっとできるのでなおよいが。この記事では書かないが、アメリカのビザ取得は冗談じゃないほど大変で排他的なシステムなので、出産をしてアメリカ国籍を取得できるのであればそれに越したことはないと思う。
この冬は記録的な降雪と低気温のおかげでチャールズ川がカチカチに凍り、凍ったチャールズ川の上に乗ったり、はじめての雪国を満喫。マイナス20度になると「寒い」じゃなくて、「痛い」になることを体感した。しかし外が寒い地域は室内が最高に暖かいので、自分が好きな季節は「ボストンの冬の室内」といつも答えている。
大学の大先輩(ボストンに行くまでお会いしたこともなかった)に誘われ、マラソンを始める。2年間で5km、10km、ハーフマラソンのメドレーを二回走り、2年目はハーフマラソンを走った。しかし、人生で長距離走の経験が乏しく、さらに大学までで人生でやるべき運動量をすべて完了したと信じている自分は結局本場のレースの距離以上に走る練習をしなかった。三回目のハーフマラソンに至っては2ヶ月間一度も練習をせずに2日前に10km弱を走っただけである。なんとか完走はできたが折り返し地点で完全にガス欠になり、最後はバンビのようにガクガクになった足を引きずってゴールした。西海岸に移ってから一回も走っていないのだが、レースと一緒に走る人がいるというのはやはり大きいなぁと思う。
会社の仕事はそれなりのことをしたつもりではあるが、どうしても自分が思い描いたような方向にもっていけず、その点ではやはりもがいていた気がする。新しく立ち上げる組織の外部アドバイザを依頼するために各大学の著名教授を訪問するツアーではちゃっかりサインをもらったり、写真を撮ったりミーハーなことをしてしまった。
大学の講義でChomskyがゲストスピーカーで来る予定のコマでPeter NorvigのChomskyに対する反論記事のまとめを講義で発表。酷い英語だったけれど、かなり良い経験になった。当日になってChomskyのダブルブッキングが発覚し、結局Chomskyなしで講義を行うことに。大変ショックだったものの、講義は盛り上がったので良い思い出。もし本人が来ていたら緊張で気絶していたと思うくらい緊張した。
しかしまぁ振り返ってみるとやはり、やる気と現実が噛み合わず、もどかしい気持ちだけが大きくなる一年だった。企業から大学への派遣や留学だと1年という単位が多いと思うが、事前にテーマと計画がだいたい決まっていなければ、2年はないと成果は残せないと思う。また、研究室に馴染むという意味でも1年では難しい気がする。
2016年
2015年にもがき続けるも対外的には大した成果が出せずにかなりのプレッシャーを感じていた。いろいろとやり方を試してみるもなかなか噛み合わず、どんどんプレッシャーは強くなっていった。2015年につづき夕飯を家で食べて再びオフィスに戻り夜中まで作業というような日々が続いた。計画性のない実験や実装を繰り返していた。キャパシティ以上に複数プロジェクトを進め(ようとし)ていた。今思えば、効率の悪い働き方をしていた。
研究者によらず、子供がいるような家庭を持っているステータスにおいては効率のよい方法で成果を出せるスキームを獲得していない辛いということを体感した。自分の場合はその点周回遅れという自覚があったので、家庭を犠牲にして仕事に時間を割かせてもらった。オフィスメイトのXがこれまた勤勉で、本当にふたりでよく遅くまで働いていた。繰り返しになるが、自分の年齢になると「時間をかければなんとかできる」という仕事は多くなってくる。それらに対して「短時間で終わらせる」ようにできるかどうかが成果をスケールさせることができるかの違いになってくる。自分の場合は完全に悪い例で、時間をかけて終わらせる戦術を選択してきた。これはスケールしないし、体力の低下と時間の減少と共に破綻するので、いち早いモデルチェンジが求められる。
大学では研究室メンバーや学部生を巻き込んでの研究プロジェクトを複数走らせていたが、参加メンバーも他の研究プロジェクトがあるので、かならずしもうまく進められるとは限らない。特に自分がリーダーでない場合には自分自身の努力ではどうしようもない。そんなことを2015年に何回か経験したので、自分が研究プロジェクトを計画して自分がリーダーをやるのがもっとも手堅いということに気づいたのもこの年だったと思う。そして、企業経験が活きた。どんなに優秀でも天才でも、みんな社会人経験が少ないので(中には数年企業の経験をしている学生がいたが、日本企業ほど堅いルールの中で働いた人はいなかった)、自分ほど綿密に計画を立てる経験値を持った人間はいなかった。そんなわけで自分がリードするプロジェクトはもちろん、それ以外ではファシリテータ的な役割を進んで行うようにした。プレゼン資料の作り込みについても感心された。それまでプレゼン能力をはじめ負けている部分をどうにかしようという想いが強かったが、なんだ自分が勝てる部分を前面に押し出して説得するのが一番、ということに今更気づいた。
この夏、二人の優秀な学部生との出会いがあり、これまたメンターとして大きく成長した(と思う)。夏季は学生も授業がないのでプロジェクトに時間を割けることもあり、新しい試みとして「必要知識のレクチャを講義形式で行う」をやってみた。これがふたりともよくはまったと思う。ひとりとの研究成果はストーリー作り、実験計画から論文執筆まで自分が担当。実装と実験については当該学生に任せるという完全分担スキームで進めてみたところ運良くWWWに一発採録され、大きな自信につながった。なにより、指導者(被指導者も自分と考えれば、自分ひとりで行う研究でも同じことがいえる)が良いテーマと計画を用意することの重要性と、いままでそれを自分ができていなかったことを自覚する良い経験となった。
秋には持ち回り形式の講義を担当し、ふたたび一コマ喋ることに。これまた非常に良い経験になった。自分が英語で講義なんて想像していなかったが、これをきっかけでやればできるんじゃね?とようやく思うことができた。あとは質と回数である。
フェンウェイパークに通いまくった一年だった。昨年には生で見れなかった上原をみることができた。Big PapiことDavid Ortizの引退試合と引退スピーチを生で見ることができた。2年しかいなかったけれど、自分にとって一生ボストンが特別な街であり続けるだろうとおもっている。心残りはPatriotsの試合を見れなかったこと。チケット高すぎ。ホッケーとバスケットボールはまだデビューしていない。
この年の冬に大学の赴任を終え、西海岸に新しくできた組織に物理的に移ることになった。珍しいケースの転勤ということや珍しいケースのビザ切り替えということもあり、いろいろとバタバタし、結局東海岸から西海岸に荷物を送っている間に日本でビザ面接を受けることに。もろもろのタイミングから、結局2016年の暮れ1ヶ月間家族とホテル暮らしをすることに。これは本当に辛かった。1歳と4歳の子供たちと一部屋のホテルで1ヶ月。一番辛かったのはもちろん子供の面倒を見ていた妻なのだけれど、子供がいる家族持ちが家を失うとどういうことになるかということを体験し、心底ぞっとした。Mr.Incredible 2で家を追われたインクレディブルー家がモーテルでテーブルを囲んでパンダエクスプレスを食べているシーンがあるが、まさにそんな感じであった。まぁ職はあるという意味では絶望感は比較にならないが。家族持ちになると思考回路が変わるけれど(でないと困る)、家や職を失うことに対するこの筆舌しがたい恐怖心は独身時代や子供がいない頃には想像できなかった。若い人にキャリア相談を受ける時は結婚と子供のタイミングについてかならず言うようにしているのだけれど、だいたいみんな若いので「?(なにいってんだコイツ)」みたいな反応をしている。まぁ仕方ない。
そんなわけでホテル暮らしで年越し。年越しそばは緑のたぬき。
2017年
年明けにビザ取得し、ようやく家も契約し、引っ越し完了。新しい組織のメンバーとして1年間働く。まだ小さな組織なのでほんとうにいろんなことを経験することができた。
複数プロジェクトに参加し、ひとつのプロジェクトをリードする際にマネジメントのようなものを学んだ。夏のインターン生受け入れてもしたが、こちらは反省点ばかりが残る。夏期のあいだは完全に自分がキャパシティオーバーになってしまい、インターンまかせになってしまった。2016年のプロジェクトはかなり運がよかっただけということに気づき、これは翌年の反省につながる。
チームメンバーとのコミュニケーション、採用面接も行うようになったので、ようやく英語でのコミュニケーションに慣れてきた気がする。と思ったけれど、要所要所で完全に理解できないところが出てきたり、自分の発音が悪いので伝わらなかったりして(直されたりした)、「まるで何も成長していない」と自分の中の安西先生がつぶやいてショックを受けたりした。なにより雑談はまだ全然ダメ。昼はだいたいみんなでランチを食べるので、昼休みのたびに雑談訓練。特にアメリカ人の流暢な英語による雑談が苦手ということに気づく。
やはり環境が変わった一年目はなかなか噛み合わないもので、2015年と似たようなもどかしさを感じていたのだと思う。それでも、会社という意味で大学に比べてチーム仕事が多く、その点のストレスが減ったように思う(その点、ストレスが増えることもあるが)。
3年目にしてアメリカにおいて「親」らしい生活がようやく始まった気がする。いままで子供を通わせていたプレスクールはいわゆる預かるための保育園で、新しいプレスクールは教育重視の学校で、ドロップオフ、ピックアップの時間も10分以内に行わないとペナルティが発生する。自然と他の親とも話す機会ができた。Parent-teacher conference では事前質問を持って行って、拙い英語で子供達の現状と課題について議論した。
自分たちが移民した非アメリカ人(特にアジア人)が多く、そういう意味で価値観が近い親が多いので、いろいろと話すようになった。人生初のプレイデートを経験した。息子と仲の良い友達のおばあちゃんが「この子たちは仲良いからプレイデートをするべきだ。今度の土曜日に来なさい」とむりやり誘ってくれて(実際土曜日は先方が都合がわるく日曜日になった。おばあちゃん、、、)
こちらでは親が積極的にソーシャルしないとやっていけない。アメリカの子どもたちも小さい頃からそれを訓練される。その点、アジア系(特に中国、台湾、韓国、インド出身の人が多い)は日本人と同じような教育を経験してからこちらに来ているので、アメリカの教育に対して同じような不安と不満を持っている。というように上の子供が次の年からKindergartenに入ることを考えていろいろと調べ始めた。
クリスマスには家族みんなでStar Wars: The Last Jedi を見る。はじめての家族みんなで映画館。これがキッカケで息子はStar Warsにハマる(作戦通り)。
2018年
ようやく2018年のはなし。2017年にある意味で落ちていた分、持ち直した感じのする年だった。ようやくアメリカに(西海岸に)落ち着いた、と言えるようになった気がする。仕事では相変わらず働く時間は昔に比べて短くなったものの、その中でも少しずつ成果につなげられるようになっていると思う。共同研究者とのコラボも少しずつうまくなっていっている気がする。
アメリカ生活といえば小さなBBQセットを買って肉を焼きまくった。いろんな方を招いて練習させてもらった(焼き方に失敗した肉を食べさせてごめんなさい)。妻とふたりでソーシャルをがんばった一年だった。ピックアップトラックを買って湖の近くの山小屋で、夏休みの孫と一緒に夏を過ごす自分のアメリカンドリームに一歩近づいたのではないかと思う。
アメリカ生活といえば息子ががんばっている。息子は9月からKindergarten(小学校0年生)、土曜日には日本語学校に通いはじめ、習い事もいろいろと始めた。秋の日曜日にはフラッグフットボール(タックルの代わりに腰につけたフラッグを取るアメリカンフットボールの簡易版)をはじめたりした。チーム名がRaidersだったので、オークランドに生のRaidersの試合を見に行ったりした(Chiefs相手にまさかの勝利をしそうになったけれど負けてしまった)。フラッグフットボールの保護者はいかにも昔アメフトやってましたという感じのパパが多く、みんな 185cm-195cm 90kg+ くらいの体格で、自分がまるで子供になったような感覚で衝撃を覚えた。
とうとう35歳になってしまった。30歳のブログ記事を読み返すと、記憶力という体力の低下が著しいと書いてある。体力も記憶力はもはや自分を信用してはいけないレベルに落ちている。体力は酷い。夜更かしして一仕事するか〜→寝落ち、というパターンが何度もあった。後述のように朝型()に切り替えたからかもしれない。
相変わらずコードは書いているが、最近はずっとPythonでライブラリやフレームワークに乗っかったハイレベルな処理しか書いていないので、コーディングスキルが実際に維持できているのか、低下しているのかはわからない。ただ、確実に集合開発とそれを意識したスキルは向上していると思う。ふとしたことからいまさらScalaデビューをしようと思ったのだが、結局時間を取れず。Pythonエコシステムに生きていると、どうしてもJava/Scalaの世界と離れてしまうので、イマドキのC++を学ぶほうがよいのかな、と思ったりもしている。
しかし、やはり既存の知識を使った作業の効率性についてはかなり高くなったと思う。10年目あたりからがキャリアとして一番効率よく成果をあげられる時期なのだろう。一方でスケールさせないといけないので、いつまでも一人で作業ではダメなのだけれど。そう言う意味では相変わらずフラフラしているのだが、、、。
人生35年目にしてとうとう朝型生活をはじめることができた。子供たちが朝食前にワークブックをやるのを見るために早起き()をし、子供たちを学校にドロップオフしてそのまま会社に行くようにした。朝ゆっくりなメンバーが多いので、オフィスに人がいない(または少ない)状態で午前中に自分の作業を中心に、午後はミーティングや議論を行うようにした。まだまだ改善の余地はあるものの、子供がいる生活においてようやくリズムらしいリズムをつくることができたと思う。その代わりと言っては当たり前だけれど、夜更かしをして作業ができなくなった。
そういえば娘が二回ほど緊急病棟のお世話になった。1回目は鼻にビーズを詰めて取れなくなり、小児科に行ったものの取れず緊急病棟に行くことを勧められ、緊急病棟で取ってもらい。2回目は風呂で転んで打った額がぱっくりと割れ、5針縫った。病棟の待合室でレッドソックスとドジャースのワールドシリーズ延長戦を家族みんなで興奮しながら観戦していた。勝ってみんな大喜び。他のレッドソックスファンとよろこびを分かち合う。いずれのケースも致命的ではなかったのと親がふたりとも対応可能な時間帯だったので落ち着いて緊急病棟に向かうことができたが、いち家族だけで外国に住むことの辛さを再確認した。アメリカの医療費はめちゃくちゃ高く、特に鼻ビーズまで緊急病棟にはかかったことがなかったので、病院から請求書が届くまではビクビクしていた。鼻ビーズを取るだけで$140。5針縫って$250だったかな。保険がなかったらいずれも5−10倍くらいかかった模様。鼻ビーズ事件以来、ビーズ嫌悪になり、見かけるたびに捨てるようにしている。
夏のインターン生のメンターをする。研究成果を少なくとも自分が納得する形でNAACLに投稿できたので、とりあえず一安心。前述したように、特に自分のところに来るインターン生は素晴らしい学生さんばかりで、うまくポテンシャルを引き出して良い成果につなげるということができないことがあったので、その点、今回は(新しい反省点はあるものの)うまく過去の反省点を活かせたと思う。今思えば、インターン生が優秀なおかげで、ほぼ毎日なにかしらの進捗がありミーティングや議論を行うことができた、というのが大きいと思う。コーディングから論文執筆まで他の共著者のサポートを受けながら二人三脚で進められた。しかしPhD最終年の優秀な学生ひとりで自分はいっぱいいっぱいなので、大人数の学生を指導している教員、特に学部生、修士学生がメインの日本の大学の教員の凄さたるや。そんな中、優秀な学生をインターンとして受け入れる企業は美味しいところ取りの気がするが、だからこそきちんとした成果にさせたいし、企業ならではの経験を提供できればと思う。
2017年にも書いたように、ついに息子が自分の英語の発音を注意するようになったのと、子供がphonicsを始めたので、自分も「正しい」アメリカ英語をきちんと学ばなければいけないと思い、秋からPronunciation 特化の英語クラスに通う。先生が理論的にアメリカ英語の発音について教えてくれて、これはめちゃくちゃ勉強になった。たとえば have to は hafta になり、want to は wanna、a cup of は a cupuv になる、というあたりを体系だって説明されると、安心して使えるようになる。特に wanna、gonna についてはカジュアル英語かと思ったら、大統領演説でも使われており、アメリカ英語ではそれ自体がカジュアルであることを意味しないらしい。ただ、強調する場合には have to, going to とひとつずつ発音することがある。これについては、ぜひまとめたいと思っているので別の記事で(こればっかり笑)。
日本語学校の友達に教わったのか息子がポケモンという概念を学び、とうとう6歳の誕生日にポケモンカードを解禁してしまった。ポケモンカードを買うときに、カードに書かれている文章を読むこと、と約束をしたところ、一気にリーディングスキルが向上した。当然知らない単語が出てくるので、それを辞書で調べたり(まだ自分では辞書を引けないので、代わりに引いて読ませる)してどんどんゲームに使われる単語を習得している。子供の意欲は凄まじいもので、あっという間にルールを覚え、カードに書かれている内容も読めるようになってしまった。いまは日本語の方が若干遅れているので、日本から日本語版も送ってもらってカタカナを読む練習をしている。日本語版、英語版を見て気づいたのが、なんとなく日本語版の方が言い回しが難しく、子供にはとっつきにくい気がする(日本語版で買ったデックが複雑な内容のカードが多いのかもしれない)。英語版の方が平易な言い回しになっている気がする。どうやらポケモンカードは日本では対象年齢が9歳以上、アメリカでは6歳以上になっていることから、やはりそうなのかもしれない。そういえば、日本語版で山札はデックと呼ばずに山札と読んでいるくせに、札を捨てるという表現が「トラッシュする」になっていて、なぜ捨てるという言い回しにしなかったのか、とちょっとムッとした。
今年のクリスマスは家族で The Grinch を見る。これは名作。Dr. Seussシリーズは何冊か持っていたけれど、せっかくの機会なので iOS で Dr. Seuss シリーズのオーディオブック機能つきアプリを早速購入。どうもリズムがいいなぁ、と思っていたら、どうやら特別な韻律 (https://en.wikipedia.org/wiki/Dr._Seuss#Poetic_meters) を多用しているみたい。日本語のように一文字一音節だと5・7・5のような文字で表現できるけれど、そうでないと非ネイティブには少しつらい。そういう意味でも音から言語を学んでいる子供たちにはぜひ頑張ってほしい(そして後で教えてもらおう)。
5年間をふりかえって
書き始める前は書くことが特に思い浮かばず、鉄道員(ぽっぽや)の日誌のごとく、各年「本年、異常なし」と書くのかなと思っていたのだが、思い返したら異常だらけだった。アメリカという地で人間として親として大きく成長した気がする。ここにも書いていない思い出はたくさんあるけれど、まぁ日々歯を食いしばってがんばった(がんばっている。)
アメリカ渡米前に @hitoshi_ni くんと @y_benjo くんが自分のために壮行会を催してくれて、いろんな方が参加してくれた。あのときに何をみんなの前で語ったか正確には覚えていないが、日本の意地をメリケンどもに見せつけてやんよ、みたいなことを意気込んでいたと思う。(マジレスをすると、自分のまわりにアメリカ人は想像以上に少なかった。)あれから5年が経ってしまったと思うと感慨深い。あの頃の自分が今の自分を見てどう思ってくれるだろうか。主にTwitterごしで活躍を見ているのだけれど、前職のみなさまも5年の間に壮行会で送り出してくださった皆様も大活躍で、自分がカッコつけたことを言って日本を後にしてしまった手前、恥ずかしくておめおめと帰れなくなってしまった感があるのはここだけの話(通称谷沢ジレンマ)。@maropu の結婚式二次会のために練習したゾンビのものまねだけはちょっとだけ誇れるのかな、と思っている。
2018年が就職してからちょうど10年にあたり、最初の5年を第一部とすると、ちょうど第二部が終わったことになる。たしかにちょうどこの5年はアメリカでの生活が始まり、ちょうどキャリアの第2部と呼ぶにふさわしい気がする。2人目の子供が生まれ、上の子供が kindergarten に入り、いろいろと習い事をはじめるという意味でも親業の第2部でもある。アメリカ生活と英語についてはまとめてみたいと3年くらい前から考えていて、近いうちにまとめられればと思う。特に30歳を超えて、子持ちでアメリカに引っ越してもなんとかなる(なんとなっていないかもしれない)ということを示せればと思う。
今後については本当にどうなるかわからないが、とりあえずは5年後のキャリアを意識した振る舞いとスキルセットの獲得を考えねばと思っている。なんかずっとそんなことを言っている気が。
2019年の抱負
抱負は抱負をいだいた時点でそのとき既に行動は終わっている、と某プロシュート兄貴がおっしゃっていたので、部分的には明日から始めたいと思う(予定)。
- 継続的な研究テーマの立ち上げと遂行
- 朝型生活の継続。仕事前のジム。
- 読書!まずは10冊から。
- ライティングスキルのさらなる向上。
昨年はサポートメンバーで手伝う研究テーマと自分が主体的に進めるテーマを2つうまく進めることができたと思う。今年も引き続き自分が一人称で行う研究と、インターン生などが行う二人称の研究。これを並行して継続的に行うことが第一歩だと思う。これについては以前から考えていたネタをもとにいくつか研究テーマを考え中なので、それを形に持っていければと思う。
朝型生活については最近オフィスのビルにジムが設置されたので、そこで仕事前にひと運動してから仕事をするのがよいのではないかと思う。できればまたハーフマラソンを走りたいと思っている。丸2年ジョギングすらしていないが、、、。
読書量は就職してからずっと低下し続けている。2018年は9冊だったようだ。ぞっとする。渡米後から特に英語の本を読むようにしているために読書量が低下している原因になっている気がする。言い訳でしかないが。今年は読書量のV字回復を目指したい(読みたい本はたくさんある)。
今年は特にライティング強化したい。さすがに渡米5年目、ここ2年は仕事ではずっと英語なのでライティングスキルはだいぶ上がった気がするが、英語の発音と同じで特別な訓練をしないと伸びない部分があるので、ライティング強化年間にしたい。特に(1)レポート、プロポーザル、論文原稿の第一稿を早く書き上げるスキル、と(2)それを(ストーリー修正含むパラグラフレベルでの修正)二稿に持っていくスキルの2つを強化したいと思っている。
Emacsをグラフィカルインタフェースで起動した時のみに特定のファイルを表示する
ひさびさにEmacs設定をいじって15分くらいハマったのでメモ。
自分は脳みそのワーキングメモリが少ないので、なんでもかんでもEmacsのscratchバッファに書いておいて他のファイルにまとめたりしている。しかしscratchバッファはデフォルトでは保存されず、警告なしにEmacs終了できてしまうため、scratch.txtというファイルを使ってそこに雑多なメモを放りこむようにしている。
いちいちscratch.txtを開くのが面倒くさいのでEmacs起動時にscratch.txtを開くようにしたい。調べてみると[1]のようにinitial-buffer-choiceで設定する方法が簡単そう。しかし、これを設定するとコマンドラインからemacs -nw hoge.txtというように起動しようとしても、最初にscratch.txtが表示されるようになってしまった。
これは致命的に使いづらいので、いろいろ調べてみたらドンピシャの解決方法を発見した[2]。コマンドラインから起動する場合には-nwで起動するようにしているので、グラフィカルインタフェース起動のときのみscratch.txtをfind-fileするようにすればよい。
(when (display-graphic-p) (find-file "~/scratch.txt"))
ここまで書いて、コマンドライン引数の有無で判定すればよいということに気づいたけれど、ターミナル上でemacsをファイル名なしで起動することがないので、これでいいや。
DataFrameをインデクスラベルではなく行番号で指定したい場合にはixではなくilocを使う方が無難
長い時間バグの原因がわからずハマって相当イライラさせられたのでメモ。これのおかげでixとilocの違いがわかった気がする。
こんなDataFrameを用意する。インデクス名が行番号と一致していない。けれどint型(ここがポイント)。DataFrameから部分的にDataFrameを取り出した場合に起こりうる状況である。
>>> d = pd.DataFrame([[1,2,3],[4,5,6], [7,8,9]], columns=['A','B','C'], index=[3,4,5]) >>> d A B C 3 1 2 3 4 4 5 6 5 7 8 9
さて、最初の2行を取り出したいなぁと思ってixを使って行指定をしてみる。
>>> d.ix[ [0,1] ] A B C 0 NaN NaN NaN 1 NaN NaN NaN >>> d.ix[ [3] ] A B C 3 1 2 3
あれ? 値が全部NaNのDataFrameが返ってきた??インデクスに存在する値だとちゃんと返ってくる。
ilocで試すと期待どおりの結果が返ってくる。
>>> d.iloc[[0,1]] A B C 3 1 2 3 4 4 5 6
インデクスがint型でない場合にはixは行番号指定と判断されるので、ilocと挙動が同じになる。
>>> d.index=['E','F','G'] >>> d A B C E 1 2 3 F 4 5 6 G 7 8 9 >>> d.ix[ [0,1] ] A B C E 1 2 3 F 4 5 6 >>>: d.iloc[ [0,1] ] A B C E 1 2 3 F 4 5 6
どうやらインデクスラベルがintの場合には、ixを使って行番号指定ができなくなる模様。公式にもそんなことが書いてある。
.ix supports mixed integer and label based access. It is primarily label based, but will fall back to integer positional access unless the corresponding axis is of integer type.
DataFrameは気を抜くと行列と思ってしまって、ついついndarrayの行指定の感覚でixを使ってしまっていたけれど、ixはあくまでインデクスラベル指定の方法だと思っておいた方がよさそう。明示的にインデクスラベルで指定する場合にはloc。
なお、Pandas本(?)にはこのことは書かれていなかった。

Pythonによるデータ分析入門 ―NumPy、pandasを使ったデータ処理
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Karabinerで設定したキーバインディングをParallels上でOFFにする方法
さて、ようやく今年になって本格的にMacに移行したのだけれど、USキーボードが大好きな人間なので、スペースバーの長さ的に左Command、右コマンドによる切り替えは難しい。やっぱり慣れ親しんだShift+SpaceでIME切り替えを使いたい。自分の事情と要望をまとめるとこんな感じ。
- 10年近くShift+SpaceでIME切り替えをしていたので、やっぱりこれに設定したい。
- Mac環境になったとはいえ、オフィス系のアプリケーションはParallelsのWindows上で動かしている。
- MacでもWindows on ParallelsでもShift+SpaceでIME切り替えができるようにしたい。
Mac環境におけるIME ON/OFFをShift+Spaceにバインディングするのは、みんな大好きKarabiner (旧keyremap4macbook) で設定できる。
以下の設定項目をONにすればよい。
For Japanese > Change Space Key > Shift+Space to KANA/EISUU (toggle)
しかし、この設定そのものはParallels上で動くWindowsの設定とは関係ない。そして、Parallels上のWindows側のIMEでShift+Spaceを設定してもShift+SpaceでIME切り替えができない。原因はMac側でShift+Spaceのキー操作シグナルがIME切り替えに変換されてしまい、Parallels上の仮想マシンに対してShift+Spaceのキー操作が送られていないことっぽいことに気づく。
これは困ったなぁと思っていたのだけれど、Karabinerはアプリケーション毎に、カスタムキーバインドを無効にすることが可能みたい。ということは、Parallelsに対してIME ON/OFFのキーバインディング設定を無効にすることができれば、Windows上のIME設定が使えるようになるのではないかと予想。
というわけでprivate.xmlを記述して、Parallelsにおいては上記設定が無効になるようにすればよい。結論からいえば、自分の場合には以下の設定でOKだった。PARALLELSについてはVIRTUALMACHINEというappnameですでに登録されているので、自分で登録する必要がないみたい。
<?xml version="1.0"?> <root> <!-- <appdef> <appname>PARALLELS</appname> <equal>com.parallels.desktop</equal> <equal>com.parallels.vm</equal> <equal>com.parallels.desktop.console</equal> </appdef> --> <item> <name>[customize] Change Space Key</name> <appendix>[customize] Shift+Space to KANA/EISUU (toggle)</appendix> <identifier>private.shift_space_toggle</identifier> <!-- <not>PARALLELS</not> --> <not>VIRTUALMACHINE</not> <autogen> __KeyToKey__ KeyCode::SPACE, ModifierFlag::SHIFT_L, KeyCode::VK_JIS_TOGGLE_EISUU_KANA </autogen> </item> </root>
これを読み込めば、Change Keyの部分に新たに [customize] Shift+Space to KANA/EISUU (toggle) という項目が現れるので、これのチェックをすればよい。上記で設定した元のShift+Spaceの設定のチェックを外すことを忘れずに。
これでMacでもParallels上のWindowsでもShift+SpaceでIME切り替えができるようになった!やった!!
ビジネスを動かす情報の錬金術
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(2014-12-03 読了)
最近データ分析入門系の本をかたっぱしから読んでいて、本書に出会った。ビザ面接で待たされているときに読了。
シューズメーカーにつとめる若手社員が主人公の物語風で書かれている。あれ、このパターンどこかで見たぞ?
特に目新しいものはなく、分析手法についても詳細に触れてないため、初学者が入門できない。
Tableau を使っているという話をするのであれば、Tableauの使い方や、どのようなシチュエーションで特に効果を発揮するのか、実例を交えて説明してほしいものだが、試用版ためしてみてね♪程度にとどまっている。
読み物としてもウーン、技術書としてもウーン。社内プレゼンの状況とか、少し会社を舐めているんじゃないかと感じる部分もあって本書の印象はよくない。
これではビジネスは動かない、これでは情報も錬金できないというのが正直な感想。
しかし、以下のようにときどきドキッとする表現が出てくるので、そういう意味では面白かった。
最近、レッドブル以外で自分に翼を授けてくれる存在は、菜穂だった。そして、彼女のことをこれだけ意識するようになったのも、今回の経営改革との戦いがきっかけだった。
??!!
この言い回しはどこかで一度使ってみたい。
結論: 読み物スタイルのデータ分析入門書系なら「とある〜」の方がずっとおすすめ

とある弁当屋の統計技師(データサイエンティスト) ―データ分析のはじめかた―
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