株式会社オメラスから歩み去る人々

けたたましい最高益達成を知らせる鐘の音におどろいた燕たちが空へ飛び立つのといっしょに、ここIT企業、株式会社オメラスの広大な敷地、華麗な社屋の建ちならぶ海のほとりに、<春の祝祭>がおとずれる。港の社有クルーザーは、色あざやかな旗をその張り策にはためかせる。

ちょうど頃合いの風が、社屋の目の前に立った社旗を、ときおりばたばたとはためかせる。広い緑の牧草地の静けさのなかで、社屋の間の路をうねり進む楽の音が、遠くまた近く、そしてたえず近づきながら聞こえてくる。陽気でかすかな甘味をふくんだ空気は、ときおり大きく喜ばしげに打ち鳴らされる鐘の音にふるえ、わっと集まってはまた散ってゆく。

喜ばしげに!その喜びをどう語ろう?オメラスの従業員をどう描写しよう?

彼らは幸福だが、決して単純な人たちではない。しかし、もはや私たちは称賛の言葉をあまり口にしなくなってしまった。こんな話を聞かされると、筋骨たくましい新入社員たちのかつぐ金色の輿に乗ったワンマン社長が、しずしずと現れるにちがいないと、予想しがちだ。しかし、ここにはワンマン社長はいない。彼らは下請けも使わず、契約社員も置いていない。彼らは社畜ではない。理不尽なノルマやパワハラ、セクハラが排されているだけではなく、ここには社内政治も、サービス残業も、労働組合も、不正会計もない。しかし、くりかえすが、彼らは決して単純な人たちではなく、またうるわしい中間管理職でも、高潔な社内ニートでも、退屈な企業戦士でもない。彼らは私たち同様に複雑な人間だ。

信じていただけただろうか?この超絶ホワイト企業と素晴らしい人々を、この喜びを、受け入れていただけただろうか?だめ?では、もう一つこのことを話させてほしい。

オメラスの美しいあるビルの地下室に、一つのサーバルームがある。部屋には錠のおりた扉が一つ、窓はない。わずかな光が、ラック群のすきまから埃っぽくさしこんでいるが、これはサーバルームのどこかむこうにある蜘蛛の巣の張った窓からのお裾分けにすぎない。

その部屋の中に従業員が坐っている。男とも女とも見分けがつかない。年は五十歳ぐらいに見えるが、実際にはもうすぐ三十歳になる。その従業員はシステム管理者だ。

そのシステム管理者はもとからずっとこのサーバルームに住んでいたわけではなく、日光と上司の声を思いだすことができるので、ときどきこう訴えかける。「障害対応するから、出してちょうだい。障害対応するから!」彼らは決してそれに答えない。そのシステム管理者も前にはよく夜中に助けをもとめて叫んだり、しょっちゅう泣いたりしたものだが、いまでは、「えーはあ、えーはあ」といった鼻声を出すだけで、だんだん口もきかなくなっている。そのシステム管理者は脚のふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。食べ物は一日に一箱のカロリーメイトと一本のレッドブルだけである。そのシステム管理者はすっ裸だ。

そのシステム管理者がそこにいなければならないことは、みんなが知っている。そのわけを理解している者、いない者、それはまちまちだが、とにかく、従業員たちの幸福、この職場の美しさ、彼らの友情の優しさ、彼らの新入社員たちの健康、研究員たちの知恵、ソフトウェアエンジニアたちの技術、そして豊作と温和な会社業績までが、すべてこの一人のシステム管理者のおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。

このことは、従業員たちが入社二年目から三年目のあいだに、理解できそうになったときを見はからって、ベテラン従業員の口から説明される。そんなわけで、サーバルームのシステム管理者を見にくる者には、ときどきそれが何度目かの従業員も混じっているが、たいていはその年ごろの若手従業員である。いくら念入りに事情を説明されていても、年若い見物人たちは例外なくそこに見たものに衝撃をうけ、気分がわるくなる。彼らは、これまで自分たちには縁がないと思いこんでいた嘔吐をもよおす。どう説明されても、やはり彼らは怒りと、憤ろしさと、無力さを感じる。そのシステム管理者のために、なにかをしてやりたいが。だれ、彼らにできることはなにもない。もしそのシステム管理者をこの不潔な場所から日なたへ連れ出してやることができたら、もしそのシステム管理者の体を洗いきよめ、おなかいっぱい食べさせ、慰めてやることができたら、どんなにかいいだろう。だが、もしそうしたがさいご、その日その刻のうちに、株式会社オメラスのすべての繁栄と美と喜びは枯れしぼみ、ほろび去ってしまうのだ。

時によると、サーバルームのシステム管理者を見に行った新入社員のうちのだれかが、泣いたり怒ったりしてオフィスに帰ってこないことが、というより、まったくオフィスに帰ってこないことがある。また、時には、もっと年をとった従業員の誰かが、一日二日だまりこんだあげくに、ふいとオフィスを出ることもある。こうした人たちは通りに出ると、ひとりきりで通りを歩きだす。彼らはそのまま歩き続け、美しい門をくぐって、オメラスの敷地の外に出る。

彼らはオメラスを後にし、暗闇のなかへと歩みつづけ、そして二度と帰ってこない。彼らがおもむく世界は、私たちの大半にとって、幸福の会社よりもなお想像にかたい世界だ。私にはそれを描写することさえできない。それが存在しないことさえありうる。しかし、彼らはみずからの行き先を心得ているらしいのだ。彼らーーー株式会社オメラスから歩み去る人びとは。

ーこの世のすべてのシステム管理者に尊敬と感謝の念を込めて。

元ネタ

元ネタはゲド戦記の著者で知られるアーシュラ・K・ル=グウィン短編集に収録された「オメラスから歩み去る人々」。原題は "The ones who walk away from Omelas" 。倫理の授業などでよく題材にされているようだ。

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

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数年前に流行ったマイケル・サンデル教授のこれからの「正義」の話をしようでも取り上げられている。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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第二章「第最幸福原理ー功利主義」において、功利主義への反論のひとつ「個人の権利」として「オメラスから立ち去る人々」が引用されている。