独学術

(2013-04-19読了)

4月病で手に取った本.超訳ニーチェの言葉の訳者らしい (読んでいないが).

本書で扱う独学とは,独自に新しく考えることを最終目的とする学習行為である.ただし,学習という言葉は学校で行われる教育,答えややり方が決まっているものを習得する行為 (英語でいうlearn) に相当するため,独学は学習ではないと述べている.独学は研究究めるという意味を持つstudyである.

独学の効用として,超訳ニーチェの言葉から以下の部分を抜粋している.たしかにそうだ.これ自体当たり前の話だけれど,なぜ勉強するの? という子供の問いに対する回答のひとつとして覚えておきたい.

「…勉強がもたらすものは実は別のところにある。勉強によって能力が鍛えられるのだ。丹念に調査をする力、推理や推論の力、持久力や根気、多面的に見る力、仮説を立ててみる力などだ。身についたこれらの能力は異なる分野でも大いに通用するものとなる」
(pp.17-18)


また,情報と知識の違いについても以下のように述べている.

情報とは何か。情報とは、そのつどの状況の一端を伝えているものである。だから、交通知識とはいわず、交通情報という。
この情報は刻々と変化していくものだから、一つの情報を基礎にして何かが広がっていくということはない。情報は常に揺れつつ変化していて、いつか必ず有効でなくなっていく。さっきの株式情報は今はもう有効ではない。
(中略)
一方、知識というものがそういう生活の基盤を支えている。数学の知識があるから正しい計算ができて正常な経済行為が成り立つのだし、化学の知識があるから植木鉢に小便をかけて枯らしたりしないのである。
また、知識は応用範囲が広いという特徴がある。情報が一過性で狭く不安定である一方で、知識は常に有効であり応用範囲が広く、古くならないという特徴がある。
(pp.38-39)

こう記述されているものの,知識と情報に明確な区分があるわけではないと思う.特に情報系の「知識」は古くなるものがあり,それ自体はどちらかというと「情報」に近いのではないか.また,大きなパラダイムシフトが起こると,知識を活用する場面がなくなるおそれもある.

さて,パラグラフライティング本を読んだ後に読んだために,そういった視点で本書を眺めていたのだけれど,個人的には適切にパラグラフが構成されているとは思わなかった (その必要があると主張しているわけではない).

そもそも縦書きはパラグラフライティングに不向きなのではないかと感じた.体裁によるが同じ文庫サイズの場合,縦書きの方が横書きに比べて1行あたりの文字数が多くなる.そのため,上下方向の目の移動が発生する.そのまま,文字を追う文には問題ないが,次のパラグラフに飛ぶときには横の移動が発生し,また最上段に目を戻す必要がある.横書きの場合には左右シークが発生せずに視線をそのまま下ろして行けばよい.人間は横に2つ目がついているため,左右方向に対する視野の方が上下方向の視野に比べて広いのも原因のひとつな気がする.

という関係のないことを思ったり.