確率論と私

確率論と私

確率論と私

(2011-10-15読了)

確率微分方程式,伊藤の定理で有名な伊藤清氏のエッセイをまとめた本.1つの話が20ページ程度にまとめられているため,さっと読むことができた.

伊藤氏によれば,元来数学とは,力学のように自然現象を正確に記述するための学問 (応用数学) であったが,成熟するにつれて抽象的な部分だけを切り離し,数学自身の論理体系を追及する学問 (純粋数学) が出来上がった.現在は数理物理学が物理という学問分野で発展し,純粋数学から離れて発展してしまったため,数学的に同じことについて物理学者と数学者でもコミュニケーションが取れなくなっていることを危惧している.

現在の純粋数学者の興味は、論理的に堅固で整然とした数学の体系を構築することに集中している。これはユークリッドの『原論』の精神に則っている。実在の現象はあまりにも複雑であるので、数学者はこれを単純化し、理想化して出発点としている。
(中略)
このような数学の芸術的側面のほかに、数学には科学的側面がある。ギリシャの大数学者として、ユークリッドとならび称されるアルキメデスは数学者であると同時に物理学者でもあって、梃子の原理、浮力など物理学における大発見をしている。ニュートンは力学の三法則や万有引力を発見し、これによって、ガリレイの落体法則、ケプラーの惑星運動法則、ホイヘンスの振動の理論を統一的に説明し、そのための数学的手段として微分積分を創始したのであるから、これは偉大な物理学者であり、真の意味の応用数学者である。
(pp.36-37)

この科学的側面の大切さを以下の段落で主張している.

数学は論理的構造物であるが、碁や将棋もやはり論理的構造物である。しかし数学は、実在の科学的把握のために作られたものであり、碁や将棋は遊戯 (ゲーム) である。したがって科学の進歩とともに数学の内容は豊富になり、これを統一した理論とするために数学は深められ、進化している。数学も科学との関係を忘れてしまえば、遊戯に堕することもある。
(pp.59-60)

この2つの章では伊藤氏の数学に対する立ち位置を見ることができた.


また「コルモゴロフの数学観と業績」では現代確率論の生みの親でもあるコルモゴロフが教育にも非常に力を入れていたという話が新鮮だった.

数学に対する適正とは何か。コルモゴロフは次の三点であるという。
1. アルゴリズムの能力。複雑な式の上手な変形、標準的な方法では解けない方程式を巧妙に解くことの能力をさす (沢山の定理や公式を記憶していても駄目である)。
2. 幾何学的直観。抽象的なことでも、頭の中で、目に見えるように描いて考えられること。
3. 一歩、一歩論理的に推論する能力。たとえば数学的帰納法を正しく適用することができること。
(pp.109-110)

3に関しては数学に限らずあらゆる場面で必要になるが,自分の場合は1と2の訓練が相当おろそかになってしまっていたと考えている.学生の頃は数学の勉強はほとんどしなかったが,定理が与えられると,それが所与のものとして丸暗記しようとしていたため,まったくといっていいほど覚えられず,数学ができなかった.社会人になってから自分が使っている道具くらいはと少しずつ証明を追いかける ようにしているが,定理の証明を追いかけると,証明の定石が身に付き,また定理を支える論理構造の意味も理解できるようになってきたと思う.


最初は「数学者のエッセイなんて理解できるだろうか」と買ってみたけれど,予想をよい意味で裏切り,とても印象に残る一冊となった.毎度良い本を読むたびに思うことだけれど,学生時代に読んでいれば自分の行動や進路が変わったのだろうか,と思う.