知的余生の方法
- 作者: 渡部昇一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/11/01
- メディア: 新書
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(2010-12-29読了)
奇しくも3年前 (2007年) の年末に読んだ「知的生活の方法 」の著者が34年後に新たに書いた本.
読書記録を書いていないのが残念でならない.内容について事細かに記憶していないけれども,多くの影響を受けた本である.殴り書きでよいから読書記録を残しておくと,後から思い出しやすいので,読んだ本に関しては何かしら記録を残すようにしたい.
さて,本書はタイトルの通り,主に「余生の過ごし方」について書かれた本である.
英語学専攻の教授を勤めた著者も2010年には80歳になった.これからの人生を活発に生きるためにはどうしたらよいのか,著者の考えが書かれている.
少ニシテ学ベバ、則チ壮ニシテ為スアリ
壮ニシテ学ベバ、則チ老イテ衰ヘズ
老イテ学ベバ、則チ死シテ朽チズ
(p.29)
一行目は,「若いときに学ぶと,壮年になってから立派な仕事ができる」というとてもわかりやすい言葉.三行目は,死後のことなのでよくわからない,重要なのは二行目の「壮にして学ぶ」ということである.
壮年の時期は仕事も忙しくなるため,一所懸命勉強をして仕事もがんばる.しかし,定年を迎えて,はたとやりたいことが見えなくなってしまうことがあるという.それは仕事のために勉強をしていたけれど,「壮ニシテ学ベバ、則チ老イテ衰ヘズ」というのは必ずしも,そういう仕事上の勉強を意味しているわけではないと著者は言っている.そして,著者の知り合いで退職後に活躍をしているケースを紹介している.
電子媒体の情報を「サプリメント」,文献の情報を「食べ物」と例えていた.(pp.135--140) 栄養 (知識) だけ考えればサプリメントで十分である.けれど,食べ物を咀嚼し,消化して栄養を吸収するという行動は身体にとって重要な訓練になる.なるほど,今までもやもやしていてうまく説明できなかった読書の効能について,ずばり言い得ている気がする.
(そういう意味では,新書も割とサプリメントに近い「食べ物」のような気もするけれど...)
また,退職後に「どうせ死ぬのだから勉強しようがしまいが同じである」と考えるのは寂しいではないかと,外山滋比古の好きな滝瓢水の俳句を引用して述べている.
浜までは海女も蓑着る時雨かな
(p.142)
これは「どうせ海に入るのだから,時雨だろうが濡れることなど気にしないで浜に向かえばいいのに,この海女は蓑を着るのだ」と解釈し,海女を自分,浜を「死期」,蓑を「読書」と見立て,「どうせ死ぬのだから何もしない」というのは「どうせ腹が減るから何も食わない」というのと同じではないかと著者の考えを述べている.
上記の俳句は,「巨人の星」の中で星一徹が坂本竜馬の言葉として語る (実際には坂本竜馬の言葉ではないらしい) 以下の言葉にも通ずるものがある気がする.
『いつ死ぬかわからないが、いつも目的のため坂道を登っていく。死ぬ時はたとえどぶの中でも前のめりで死にたい』
(「巨人の星」より坂本竜馬の言葉を語る星一徹)
最後に著者が理想とする死に方にスイスの哲人カール・ヒルティを挙げている.彼は平生こういっていたという
「人生の最後の一息まで精神的に活発に活動し、神の完全なる道具として仕事中に死ぬことが、秩序正しい老年の生き方であり、人生の理想的な終結である」
(p.220)
ヒルティの最期についても書かれている.76歳のヒルティは,いつものように朝の著述を行い,ジュネーヴ湖畔を少し散歩をして,いつもより疲れを感じたので娘にミルクを温めてもらってくるように頼んでソファに横になった.まもなく娘が暖かいミルクを持ってきたとき,彼は苦しんだ様子もなく息を引き取っていた.机の上には平和論の原稿があった.
これを読んで,なるほど人生を駆け抜けるとはこういうことかと感じた.自分も死ぬときは布団の上ではなく,誰かと議論をしながら,もしくは机の上で死にたいなぁと思った.