脳はなぜ「心」を作ったのか

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

(2007-12-07読了)

人類の永遠の謎であった「私」がなんであるかを解明する.
自分とは何か?ということを考える哲学分野を「独我論」と呼ぶらしい.あの永井均の専門もこれ.


「受動意識仮説」という言葉で,脳に存在する大量の小人さんによって意識が規定されるということを説明している.


最初に用語説明

「自分」
ハードウェアとしての自分.身体,脳を含める
「私」
意識のこと
<私>
「私」から,awarenessを取り除いた,自己意識について感じる部分

<私>がちょっと理解できなかった.少なくとも自分は「私」=<私>と考えているから,この違いが実は理解できていない.


「受動意識仮説」とは要するに,

  1. 脳の中には大量の小人さんがいると仮定する
  2. リベットの指を動かす実験で,意識より前に無意識が働いていることがわかった.
  3. 要するに「私が意識しているから身体が動いた」と錯覚している
  4. ということはつまり,大量の小人さんが意識を作り出している

ということ.違うかも.


なので,クオリアも彼曰く意識の錯覚らしい.そう考えると今までの問題に全てカタがつくと著者は言ってるのです.確かにコペルニクス的ですが,ちょっと待て,これって「フレーム理論」じゃね?フレーム理論を深く理解していないので「心の社会」を読んでからもう一度考えてみよう.


「私」の存在意義はエピソード記憶をしやすくするため,という仮説を挙げており,またエピソード記憶意味記憶よりも進化した記憶であるみたいなことを述べている.
うちの猫も寝言をいうので夢を見ている気がする.そして,何よりも行動心理学でいわれる学習ってエピソード記憶が元になっているような気がするんですが...


沢山の支流(小人)が本流(意識)に流れこむ図で説明されているが,実は「私」すなわち意識というくくりが必要ではない.あくまで説明のための概念ではないのだろうか.著者の説明では小人さんが意識を作り出しているというところまでは説明しているものの,なぜ意識がそれをまとめているのかという点を説明していない.しかし著者は「私」というものにいたくこだわっているらしく,そこのところが論理的に繋がらない.


思い切って「私」を排除して,「「私」なんて存在しなくて,小人さんの総意で決まってるんですよー」という結論にした方がよりコペルニクス的だと思う.少なくとも私はこう考えている.


つっこみどころは沢山あるのだが,逆にいえば突っ込めるくらいにわかりやすく書かれているということ.考え方自体が非常にシンプルであるため,色々と考えることができる.久しぶりに分野を問わずお薦めできる本に出会った.

つっこみどころ

リベット博士の実験は他のところでも聞いたことがあるけれど,80年代の話らしいので,その後誰かフォローしていないのか?話を聞かないということは,結局眉唾だったのではないだろうか.本書では,誰も否定できなかったとあるけれど,何を否定できなかったのだろう?
そして,意識より先に無意識が働くというけれど,それは意識的に動作をした際に反応する部位ではないところが準備をする,と考えることはできないだろうか?無意識もひっくるめて意識と考えてしまうことを否定することはできないので,そう考えてしまうと,論ずることができなくなる.

細かすぎてどうでもいいつっこみ

あとは人工ニューラルネット(以下NN)を礼賛しているけれど,ちょっといただけない.BP(Rumelhart論文が1986年)以降良い学習方法が出てきてないので学習が解決されない限りは…と思ってしまう.

  • NNは記号扱えませーん.(p.137)
  • 痛みを感じないならアリを殺してもいいのか(笑)?(p.151)